記憶を見せる(送る)のは進撃なのか始祖なのか。そんなやつはいないのか
問題は、どのようにしてエレンの記憶(未来)がグリシャ(過去)に伝わったのか、ということでしょう。
本来ならば「進撃の巨人の力」で済む話です。なぜなら『「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる』というグリシャの発言があり、実際にその通りになっているからです。
グリシャが未来のエレンの記憶を見ている。それで問題ないはずです。
にも拘わらず、「記憶を見せる(送る)力」というものがあるのではないか、それは進撃あるいは始祖の力によるものなのではないか、と思われてしまうのは、記憶ツアーの描写が全体的にわかりにくいからではないでしょうか?
そしてその中で「なぜすべてを見せてくれないんだ」とか「都合のいい記憶だけをグリシャに見せて云々」というセリフが登場するからではないでしょうか?
しかし「記憶を見せる力」は作中の描写からはその存在を証明することはできず、それありきで考えるとつじつまが合わないことや不要なエピソードが出てきてしまいます。
結論を言うと、 ダイレクトに記憶を見せる者は存在しません。どこまでいっても記憶は自分で見るものです。 そう考えるしかないし、そのほうが物語を面白く感じられると思います。エレンが出来ることは極力少ないほうが良いのです。
記憶を送る者が特定の記憶を選んで送ったとわかる描写もなければ、その特定の記憶を見た側が「これは記憶を送る者が送ってきた記憶であり、自分で見ているのではなく見せられているから見ているのだ」と自覚している描写もありません。
そもそも、記憶を送る力など無くても本編の物語はきちんと成立するように作られています。
よって、進撃の巨人にしろ始祖の巨人にしろ「ダイレクトに記憶を見せる力」など無く、そこに何か力がはたらいているとすれば、あくまでも記憶を見るきっかけを与えているに過ぎないと考えられます。
関連
なぜ過去の継承者に記憶を送る能力は存在しないのか
グリシャが見ていた「未来の記憶」 in 記憶ツアー
「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」とは?
なぜ「未来は変えられない」のか
目次
なぜ「記憶を見せる」という話が出てくるのか
まず進撃の巨人ですが、グリシャが言ったのは『「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる』という「見る側の話」です。
エレンは「記憶を送る・見せる」などとは一言も言っていません。グリシャもクルーガーも過去の継承者に記憶を送ったとわかる描写はありません。
次に始祖の巨人。エレンのラジオ放送「オレの名はエレン・イェーガー」や、ミカサやアルミンたちを道に呼び寄せたテレパシー的な現象がありました。
しかしそこで記憶のやり取りがあった形跡はないため、これを頼りにすることは難しいでしょう。何でもできそうな雰囲気を出しつつ、明確な描写は何もありません。
にも拘わらず、「記憶を見せる」という話が出てくるのは、多分この人たちのせいです。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
なぜ…すべてを見せてくれないんだ…
壁が…壊されることを… 壊される日を… …カルラの安否を…
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
お前が… 父さんを… 壁の王や…世界と戦うように 仕向けた…のか?
「進撃の巨人」に…本当に時を超える能力があるのなら…
都合のいい記憶だけをグリシャに見せて過去に影響を与えることも可能なはず…
「見せてくれない」だの「都合のいい記憶を見せる」だの、さも「記憶を見せる者」が存在するかのような言い方です。
確かに、人が2人いて一方が見せる側ならば、もう一方は見せられる側になります。見られる側と見る側と言えたりもしますが、そこは受け手の解釈次第です。
これらの描写においては「見せる側と見せられる側」という表現がしっくりくると思われているのでしょう。
どっちでも良いと言えばどっちでも良いし、エレンがコントロールしていると解釈するほうがなんとなくわかりやすい気がするかもしれません。
しかし、実際に起きていることを見てみると、そうではないことがわかります。
記憶ツアーで起きていること
- エレンは勲章授与式で「記憶ツアーの一部」を見ている。たとえその内容が何を意味するかわからなかったとしても見たことはほぼ確実。※1
- 記憶ツアーが始まってから、エレンは、グリシャが「エレン視点のグリシャの記憶」を見ていることに気づく。
- グリシャは遅くとも礼拝堂地下の段階で、進撃の巨人の継承者は「未来の継承者の記憶を覗き見ることができる」と自覚している。
進撃の巨人という作品では基本的に記憶は偶然見るものであり、グリシャも例外ではありません。
しかし記憶ツアーの場合、エレンはグリシャが確実に見ることになる記憶を一部知っています。そしてそれを上手く利用してグリシャを促すような行動をしている訳です。
※1. アニメ87話には原作130話のような演出がありませんので、エレンが勲章授与式で「うなだれるグリシャの記憶の断片」を見ていたということを絶対的な前提にはしないほうが良いかも知れません。とはいえ、漫画的な演出として考えた場合、130話の記憶の断片が勲章授与式で見たものでないとみなすのも無理があるでしょう。115話の回想でエレンはこの記憶を勲章授与式のときに見たと説明しています(躊躇するグリシャを見たとは言ってないが感触が残っているとは言った)。また、121話の礼拝堂の場面でジークもこのことに触れています。
なぜすべてを見せてくれないんだ
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
なぜ…すべてを見せてくれないんだ…
壁が…壊されることを… 壊される日を… …カルラの安否を…
まず、グリシャは、エレンからダイレクトに記憶を見せられていると感じている訳ではありません。
その証拠に後の場面で「先の記憶を見た」と言っています。「エレンに先の記憶を見せられた」とか「エレンから先の記憶が送られてきた」とは言っていないのです。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
そしてもう1つ、「なぜ見せてくれないんだ」という言い方は、能動的に見たいけど見られないときにも普通に使う言葉です。
「続きが見たい」を劇のセリフ調にすれば「なぜ続きを見せてくれないんだ」になります。グリシャの場合もこれと同じです。そしてこの父子はいわゆる中二病的な表現をよく使います。カッコつけです。
例えば、アルミンが「ベルトルト… なぜすべてを見せてくれないんだ… なぜもっとアニの姿を見せてくれないんだ… なぜライナーの顔面ばかりなんだ…」と嘆いたとしても、これだけでは「アルミンはベルトルトに記憶を見せられている」とか「ベルトルトがアルミンに見せる記憶を選んでいる」とは言えないでしょう。ベルトルトに主導権があると保証するには明らかに情報が不足しています。
要するに「おお神よ!なぜ私にこのような試練を与えたもうか」的な嘆きとほとんど変わらないのです。
エレンとベルトルトでは条件が違うと思われるかも知れません。しかしそれが認知バイアスを生んでいると言えます。方向が過去か未来か、記憶ツアーの有無、といった違いは「記憶を選んで見せているかどうか」を決定づける要素ではありません。結局、主観的で曖昧なセリフがあるだけでまともな証拠がないという点で両者は同じです。
グリシャはエレンに記憶を見せられている、という先入観を捨てる必要があります。グリシャは自分の中にある「エレンの記憶」を見ているのです。
しかしこれだけではまだ足りません。エレンが制限をかけているのでは?という問題が残っています。
なぜグリシャは「カルラの安否や壁が壊されること、壊される日の記憶」が見られないのか?という問題です。
グリシャが見た未来の記憶は2セット
- ①エレンが誕生後〜レイス一家惨殺
- ②エレンが勲章授与式で見た「未来の記憶」と同じもの
グリシャが記憶ツアー中に見た「未来の記憶」は大雑把にいってこの2セットだと考えられます。
まず、①ですが、エレンとジークが終始グリシャに張り付いて追い掛けているという記憶ツアーの舞台設定を忘れてはなりません。
シガンシナ陥落のあの日、グリシャはエレンの調査兵団に入りたい発言を受けてついにエレンに地下室を見せる決断をし、レイス家礼拝堂地下に向かいました。
そうなれば当然エレンとジークはそのグリシャを追い掛けて行くわけです。自ずと壁が壊されるところとか、カルラの安否は「エレン視点のグリシャの記憶」からは除外されてしまいます。
また、グリシャは避難所で10歳エレンにカルラが巨人に食われたことを初めて知らされました(18巻71話「傍観者」)。だからどう頑張ってもそれより前にカルラの安否を知ることはないのです。
このように書くと未来が先に決まっていて優先されるかのような印象を受けるかもしれませんが、そうではなく未来と過去が揃って初めてグリシャのシナリオは定まります。「記憶ツアーではカルラの安否を知ることができない」と「避難所でカルラの死を知る」という2つの出来事は切り離すことはできません。
壁の破壊にしても同じです。グリシャ自身があの日壁が破壊されるタイミングでシガンシナ区にいないことになる選択をしたからこそ、壁が壊される記憶を見られない、ということになります。
でもカルラの安否を知ることができなかったのは記憶ツアーでエレンがそれをグリシャに知らせなかったからなのではないかと思われるかもしれませんが、記憶ツアーに立ち会っているエレンは「グリシャがカルラの安否を初めて知るのは避難所」だと知っているエレンなのだから、それに対して積極的に何かしようというモチベーションは生まれ得ません。レイス家の礼拝堂を早く見つけたグリシャに対して845年まで待てと命令しようと思わないしできないのと同じです。既に確定された過去に対して、エレンはどうすることもできません。
そして②。エレンが勲章授与式で見た「未来の記憶」がグリシャと同期されるのですが、これはまさに「先の記憶(厳密に言えば、過去未来問わずエレンがまだ見たことがない記憶)」なので「カルラの安否や壁破壊の記憶」は含まれていません。
エレンが見た「グリシャを通じて見た未来の自分の記憶」とグリシャが見た「エレンの先の記憶」は同じものになるはずので、ここでグリシャが「カルラの安否や壁破壊の記憶」を見られないのは自然なことなのです。
もちろん少年エレンの記憶には壁が破壊されるところやダイナ巨人に食われるカルラの様子が保存されているでしょう。
しかし、残念ながらグリシャがこのターンで見ることになる記憶には含まれなかった、ということです。
それに加えて、壁が壊される日まで任務を実行に移さなかったグリシャにも原因があると言えるでしょう。
都合のいい記憶だけをグリシャに見せれば
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
お前が… 父さんを… 壁の王や…世界と戦うように 仕向けた…のか?
「進撃の巨人」に…本当に時を超える能力があるのなら…
都合のいい記憶だけをグリシャに見せて過去に影響を与えることも可能なはず…
まず、ジークが言った「進撃の巨人に本当に時を超える能力があるのなら」ですが、あくまでも「未来の継承者の記憶を見る力」を指していると考えて間違いないでしょう。
だってグリシャがそう言っているではありませんか。ここで敢えて「過去の継承者に記憶送る能力」と変換する必要性を感じません。
そして「都合のいい記憶だけをグリシャに見せて〜」ですが、これは言い方の問題です。
記憶ツアーが始まってしばらくしてから、エレンとジークはグリシャが「エレン視点のグリシャの記憶」を見ていることを理解しました。
この状況が何を意味するのかと言うと、「エレンがグリシャのどの記憶を見るか」によって、「グリシャが見て影響を受けることになる未来の記憶(エレン視点のグリシャの記憶)」が決定されるということです。
エレンとジークは、グリシャの様々な記憶を見ながら、「次だ」「行くぞ」「次の記憶だ」とか言っていましたので、どの記憶を見るかは、彼らが選んでいたと考えられます。
つまり、エレンが自分にとって「都合のいい記憶を選んで見る」ということが、実質「都合のいい記憶だけをグリシャに見せる」のと同じことになるのです。
ちょっと言い換えているだけで、ジークは何もおかしなことは言っていない、ということになります。
ただし、これは グリシャが絶対に「エレン視点のグリシャの記憶」を見ることになる という記憶ツアーだけに通用する話です。
エレンは勲章授与式で礼拝堂地下の記憶を見ていますので、グリシャも絶対にそこの記憶を見るとわかっています。そして、この状況を逆手に取って自分で見る記憶を選び、「父さんが始めた物語だろ〜」を実行したのです。※2
※2. 100%確定という訳ではありません。
…先にある何かを…お前が見せたことで
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
(グリシャが)もっと先の未来を見たからだ… …先にある何かを… お前(エレン)が見せたことで
これも上の「都合のいい記憶だけをグリシャに見せて〜」と同じで、勲章授与式以降にエレンが歩む道のりをグリシャが記憶を通じて見ることになる(なぜならグリシャは進撃の巨人の継承者でありエレンは未来の継承者だから)、という2人の関係・構造をジークが説明しているに過ぎません。
ジークがエレンをグリシャの記憶に連れ込んだおかげで、850年の勲章授与式の15歳エレンと845年の始祖奪還直後のグリシャが同じ記憶を見た、という事実がただそこにあるだけです。
エレンが能力を使ってグリシャに記憶を見せる作業をしたという訳ではありません。
礼拝堂地下でのグリシャの挙動
エレンが操作していないのであれば、あんなに都合の良いタイミングでグリシャが記憶を見るはずがない、と思われるかもしれません。
しかし、そもそも記憶とは経験であり、意識無意識問わず必要なときに思い出して行動に活かされるものです。
エレンを始めとする知性巨人継承者が誰に教わるでもなく巨人化の方法を知っているのは、先代から記憶を受け継いでいるからでしょう。
これは断片的な映像の記憶であっても本質的には変わらないものであり、グリシャは未来の継承者であるエレンの記憶を経験として保持していることになります。
グリシャが見る見ないに関わらず、記憶は既に最初から全部用意されていると考える必要があります。2000年分、ユミルの民全員分の記憶は既にあるのです。過去も未来も無く同時に存在するのですから、そういうことになってしまいます。
だからグリシャの中には、エレンが「父さんが始めた物語だろ」と言う前から、「父さんが始めた物語だろ」の記憶は既にあるということになります。しかもそれは自覚があろうがなかろうが経験済みの出来事としての記憶です。
記憶を見られるかどうかはグリシャ次第ということになりますが、いざフリーダを目の前にした極限状態のあの場面で、「父さんが〜」と言われたあのときに、「父さんが〜」の記憶を見ないなんて話があるのでしょうか?
「父さんが〜」はたとえ未来の記憶だとしても「巨人化する方法」と変わらないわけですから、いざその時が来たら思い出してしまうのはむしろ自然なことでしょう。
もしエレンがグリシャに記憶を見せて操ることが出来るのであれば、グリシャが礼拝堂地下に到着した時点でさっさと巨人化させれば良いのではないでしょうか?
わざわざあのタイミングまで待ってから記憶を見せる必要はありません。もっと早い段階で行動させることだって出来たはずです。出来るにも拘わらず、敢えてそれをしない明確な理由はあるのでしょうか?
記憶ツアーについてのまとめ
ジークはエレンの洗脳を解くためにグリシャの記憶に連れ込みました。
そこでグリシャは、進撃の巨人の「未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる」という特性によって「エレン視点のグリシャの記憶」を見ることになりました。
ジークとエレンは、グリシャのどの記憶を見るか選んでいました。とはいえ、グリシャがどこまで「エレン視点のグリシャの記憶」を見ているのか詳細はわかりません。
しかし、エレンは勲章授与式で礼拝堂地下の記憶を事前に見ているため、そこの記憶だけは間違いなくグリシャが見るとわかっています。
このような状況を利用してエレンは「父さんが始めた物語だろ」の下りを実行したということです。
これで記憶ツアー中の描写は成立してしまいます。
「記憶を見せる力(送る力)」は必要ありません。
エレンとしては、グリシャが「自分がエレンにけしかけられる記憶」を見ていると確信できなくても問題ない
もっと言えば、エレンが「グリシャがエレン視点のグリシャの記憶を見ていること」を知らなくても問題はありません。
なぜなら、エレンは記憶ツアーの段階で既に始祖の巨人を継承しているからです。どう足掻いてもグリシャはフリーダを殺して始祖の巨人を奪いエレンに継承するのは明らかなのです。
そして「立てよ父さん〜父さんが始めた物語だろ」の下りが、グリシャがフリーダを殺したことの直接の原因であると証明することは永遠に出来ません。明確な因果を示すことは不可能です。
たとえグリシャが「自分がエレンにけしかけられる記憶」を見ていなかったとしても、グリシャの中にエレンの記憶が存在するというだけで影響を受けるということもあり得ます。クルーガーの「ミカサやアルミン〜」なんてまさにそうでしょう。クルーガーが実際に記憶を見たかどうかなんてわからないのです。
なぜエレンはグリシャをけしかけたのか
明確な因果が不明にも描かわらず、記憶ツアーがあり、その中で「父さんが始めた物語だろ」のシーンが挿し込まれている理由が何なのかといえば、エレンのグリシャに対する認識の変化を描くこと、そして最終的には巨人の継承に向き合う気持ちの問題だと言えると思います。
エレンとしては巨人の力は親に押し付けられたのではなく自分の意志で選択したものにしなくてはならなかったということです。また、医者として人殺しを躊躇うグリシャに対して、最終的に命令したのはエレンであると思わせることで、罪の意識を軽減させる狙いがあったかもしれません。
130話の回想で「すべてが最初から決まっていたとしても すべてはオレが望んだこと」があります。これが何かといえば、自由を求めるエレンの葛藤です。すべてが最初から決まっているということを全面的に受け入れると自分は自由ではないということになります。自分が自由であるとみなすには、たとえ地獄でも「すべてはオレが望んだ」ということにするしかありません。この葛藤は未来の記憶を見た勲章授与式から徐々に深刻になっていったはずで、だからエレンはミカサやアルミンとのレストラン会談で「オレは自由だ」とやたら強調していたのです。
これを踏まえると、エレンは、「そういう未来だと決まっている(だから、仕方なくやる…でも出来ない…)」というグリシャの態度にムカついたから「おいおいおいおい父さんが始めた物語だろ」と言ったということになります。もうひとつ重要なのは、第三者にこれを見てもらうこと。つまりジークの目の前でやるということです。これによってエレンの中で自分の自由は証明され、ついでにジークをひるませることも出来るのです。
グリシャにだけ伝えれば良いのであれば、実演する必要はなかったでしょう。しかし敢えてジークに見せたということは、ジークの父への認識を覆して安楽死計画への意志を挫くこともエレンの目的としてあったということなります。エレンからすれば、グリシャは多分この記憶を見ることになるだろう、ぐらいでも十分なのです(結果的にグリシャはこの記憶を見たとは思いますが)。
とはいえ、この一連の行動もすべて決まっていたということになってしまいます。しかしそれでもエレンはやらないわけにはいかないのです。
エレンがグリシャに影響を与えている(グリシャがエレンの影響を受けている)、つまり未来の人間が過去の人間に干渉していることは間違いないでしょう。しかしだからといってそれがエレンのシナリオ通りであるとか、エレンが意のままにコントロールしていたということに即繋がる訳ではないのです。作中の描写からわかるのは、自動的に互いが干渉し合っている、くらいのものでしょう。
なぜ進撃の巨人の力は「記憶を見せる」ではなく「記憶を見る」なのか
なぜ進撃の巨人の特性(能力)は「過去の継承者に記憶を送る」ではなく「未来の継承者の記憶を見る」なのでしょうか?
それはエレンがどうやってグリシャの過去を知っていったのかを見てみればわかると思います。
記憶は偶然見るもの
知性巨人継承者が先代の記憶を見るのは、眠っているときなどの無意識状態のときが多いようです。エレンのように王家の血を引くヒストリアとの接触などのきっかけがあったときにまとまった量の記憶を見ることもあります。
いずれにせよ、本人にとってそれはコントロール不能で偶然に近い感覚だと思われます。
エレンは段階を踏んでグリシャの記憶を少しずつ見ていきました。レイス家礼拝堂地下でグリシャがフリーダを殺して始祖を奪ったことを知り、地下室の手記でマーレ時代、さらに記憶ツアーでパラディ島時代の大部分を把握する…という流れになっています。
これを踏まえて考えると、進撃の巨人継承者が「過去の継承者に記憶を送る能力」を持っている、というのは相当おかしなことだとわかるはずです。
何か狙ってやりたいことがあって、そのために過去に影響を与えるというのであれば、まず何よりも先に、過去の継承者の記憶を隅々まで把握しなければなりません。
過去に何があったのかろくにわかっていない者が、過去の継承者に特定の記憶を見せて何をするというのでしょうか?
記憶送信能力とは、未来の継承者が過去の継承者の記憶の全てを事前に見て知っているという前提がなければ成立しない能力なのです。
しかし過去の記憶を見るということは、同時に過去が決定されるということでもあります。そのタイミングでエレンがグリシャに記憶を送って何かしようとしても手遅れです。
過去と未来が同時に存在するならば
過去を知った上で何か目的があって過去に記憶を送るということは、自ずと過去が変わることになります。俗に言う「過去改変」というやつです。しかし進撃の巨人という作品に過去を変えたとわかる描写は一切存在しません。
過去は変わらないということを踏まえた上で、過去と未来が同時に存在し、現在の人間からすれば全てが最初から決まっていると感じ、そして過去と未来が相互に影響し合っているという構造を維持するためには、未来側が過去の結果を受けて過去に記憶を送信するという現象があってはならないのです。
未来側が過去を知った時点で既に過去は確定していて絶対に変わらないのだから、過去へ記憶を送る理由も必要性も何もないということになります。あくまでも過去側が未来の記憶を見た影響で過去が決定されるという方向でなければなりません。
そうでなければエレンは「すべてが最初から決まっていたとしても」とは思わないでしょう(そしてこれは始祖を掌握した後のエレンのモノローグです)。
だから進撃の巨人の特性は未来の継承者の記憶を見ることなのです。
なぜ見せる記憶を選んでいないと言えるのか
未来のエレンがグリシャに見せる記憶を選ぶとはどういうことなのかと言えば、それは「過去の結果を受けてゴールに到達するために必要な記憶を選別する」ということになるでしょう。
しかしエレンやジークたちが過去へ干渉することも織り込み済みでこの世界が出来上がっているのであれば、自ずと「過去を知ってから記憶を選別する」という行為はしていなかったということになってしまいます。
なぜなら、エレンがグリシャの過去を知るということは、その時点でグリシャがどのような記憶を見てそこに至ったのかも確定するからです。
「エレンが能力を使ってグリシャに記憶を選んで見せている」という仮定は、このような構造上の縛りと矛盾してしまいます。
それでも頑張って記憶の送り主はエレンであると説明しようとすると以下のような問題に突き当たります。
記憶送信は記憶ツアー限定説。あの景色(先の記憶)問題
記憶ツアー中のエレンが逐一グリシャに記憶を選んで見せていたという説があります。始祖(その由来がジークなのかエレンなのかは置いておいて)と進撃が揃ったことで、エレンは奇跡的にグリシャは未来の記憶を見せることができた、というような考え方です。
しかし、この説は始祖奪還後にグリシャが見たと語る「エレンの先の記憶」の由来を説明できません。
エレンが記憶ツアー中に自分が見たものだけをグリシャに流していたというのであればまだ説明はつくのかもしれませんが、「先の記憶」はこの時点のエレンはまだ見ていないものだからです。
「いやいや、勲章授与式で既に見ているからエレンの中に記憶として存在しているのだ」と思われるかも知れません。
では、その記憶はどこから来たのでしょうか?
勲章授与式時点のエレンからすればグリシャを通じて手に入れた記憶ということになります。
では、グリシャはどうやってその記憶を手に入れたのでしょうか?
答えられないでしょう。
ここがクリアにならない限り、エレンが記憶を見せる能力を持っているとは言えません。一切書かれていないものを「ある」とするための証拠が明らかに不足しています。
そもそもなぜエレンが記憶を見せる能力があることにしたいのかと言えば、エレンが過去の継承者を操っている、つまりグリシャやクルーガーに対して主導権を握っているという設定にしたいからでしょう。
しかし「先の記憶」はグリシャ頼み、しかもそれを見たのが偶然なのであれば設定として不完全です。
これでは記憶ツアー中にグリシャが見ている記憶もエレンが意図して見せているとは言えないのではないでしょうか?
見せる記憶を選ぶという矛盾
記憶ツアー限定説が使えないとなると、次の候補は始祖を掌握したエレン、しかもあの場には描かれていないエレンを想定することになります。
始祖エレンはグリシャに記憶を見せることが可能であり、さらに2000年分全てのユミルの民の全ての記憶を完全に把握している状態だと仮定すると、残る問題はどのような基準で見せる記憶(見せない記憶)を選別しているのか?ということになります。
想像しやすいのは、「これを見たらグリシャは躊躇するだろうな」という記憶を見せない、というやり方でしょう。
しかし、グリシャは「レイス一家を惨殺する記憶」を見て躊躇していました。つまりグリシャは「エレンが見せても良いと判断した記憶」を見て躊躇していることになってしまいます。
また、エレンがグリシャに特定の記憶を見せなかった場合、その効果は測定不可能なため、良かったのか悪かったのか永久に答えは出せません。
都合の良い記憶と悪い記憶があるといっても、目的を果たす上でそれが都合が良いかどうかは結果が出るまでわからないのです。
かといって、結果を知った上で、その結果を生んだ行動を起こす原因になったと思われる記憶を見せるのであれば、記憶を選ぶことそれ自体の意味はないということになります。なぜなら、それだと結果と記憶がセットになってしまい、見せる記憶を選ぶことによって行動を操作することが出来ていないからです。
さらに、本編で描かれたものが始祖エレンが記憶を選別し干渉した結果であるとするならば、ゴールに辿り着くまでのエレンやグリシャは都合の悪い記憶も良い記憶もすべて本編で見たのと同じものをきっちり見なくてはならないという制約が生まれます。
そうなると、たとえ始祖を掌握したエレンという神的な存在であっても、結果を受けてグリシャに見せる記憶を選択する余地はないということになってしまいます。
なぜなら、記憶を選択する始祖エレンという存在は、そこに辿り着くまでに様々な記憶を見て行動してきたエレンの延長だからです。そうなると結局、始祖エレンは自分が見た記憶と全く同じラインナップを何も考えずに選ぶしかないということになります。
全てを知っているからこそ、何も選べないというジレンマです。この作品において、記憶を選んで見せる能力の存在意義はどこにもないのです。
始祖エレンを切り離すと?
「いやいや、始祖エレンにはそのような制約はないのだ」と思われるかもれません。
しかし、未来の始祖エレンを現在エレンやグリシャの利害関係から切り離された特別な存在として考えると、今度はなぜあの記憶のラインナップを用意してグリシャに見せたのか?という疑問が生まれます。
そうしなければならない理由は「そうしなければならないから」にしかならないはずです。ストーリーから読み解けるエレンの都合や気持ちを考慮してはいけないのですから、理由はないということになります。
つまり、始祖エレン=作者ということです。始祖エレンが全知全能であるとすることは、無駄な工程を1つ増やして話をややこしくしているだけなのです。
そうなってしまうこと自体は別に悪いことではありません。問題は、始祖の能力がどうしたとか記憶の送り主云々の説明にとって非常に具合が悪いということです。
結局、説明としては、作者が選んだ記憶をグリシャが偶然見ることになった、ということになってしまいます。
やり直しのループもの?
どうしても黒幕である始祖エレンがグリシャ(&過去の自分)に記憶を選んで見せていたということにしたいのであれば、この作品を「やり直しのループもの」として解釈することになります。
しかし進撃の巨人という作品はそのような仕組みになっておらず、決定論的な世界です。
やり直しループものとみなせるだけの要件を満たしている訳でもないし、また〇〇ルートのようなものは一切描かれていないのでパラレルワールドがあるとも言えません。
したがってグリシャが見た未来の記憶の内容は始祖エレンが意図して選別したのではない、そもそも全知全能の始祖エレンもいない(いても意味がない)、ということになります。
偶然とどう向き合うか
エレンやグリシャがどのような記憶を見るのかというのは、言ってしまえば偶然です。
ただし、何の脈絡もなくランダムに記憶を見るという訳ではなく、何かしらのきっかけや方向付けはあると考えられます。重要なのは記憶を見る前の段階、つまり登場人物の考えや行動そのものなのです。
偶然では偶然でも、ストーリーによって作られた偶然です。
記憶ツアーはジークがグリシャの過去をエレンに見せたいと思って始めたものであり、エレンが勲章授与式で未来の記憶を見たときは、ちょうど外の世界のことを知り、仲間やパラディ島を救うにはどうすれば良いか悩み必死に考えていた時期でした。
あくまでもどの記憶を見るかというのは本人にとっては偶然であり、それを受けてどう行動するかということが肝なのです。
もしも記憶を送ることが出来るなら
もし記憶を見せる(送る)能力というものがあったとして、偶然記憶を見ている側がそれを誰かが狙ってやったことであり必然なのだと感じるにはどうすれば良いのでしょうか?
同じようなことが何度もあった場合、「もしかしてこの記憶は誰かに見せられてるのでは?」と感じるかもしれません。グリシャの場合は「エレンに見せられている」と感じる可能性は低くないように思われます。
しかし、その現象が起きている原因が「ダイレクトに記憶を見せる力」によるものなのか、「記憶を見るきっかけを与える力」によるものなのか、厳密に区別するのは不可能です。
なぜなら、どこまで行っても最終的にその記憶を見るのは自分だからです。知性巨人継承者が自分以外の継承者の記憶を見たとしても結局は本人の中にある記憶を見る、ということになります。
もし見せるのが記憶ではなく、テレパシーのようなもので本人が知らない映像を見せる場合、見せられた側が「誰かに見せられた」と感じることはさほど不思議ではなく、そのような描写があっても読者は受け入れやすいはずです。
しかし記憶の場合、いくらエレンがグリシャに自分の記憶を強制的に見せたと言い張ったところで、グリシャにしてみれば「自分の中にあるエレンの記憶を見た」ことに変わりはないので、「エレンに記憶を見せられたかどうか」はわからないということになってしまいます。
この障害を突破するだけの「記憶を見せる能力」をマンガで表現するのは相当困難なのではないでしょうか。
記憶送信能力の条件
記憶を見せる(送る)能力はエレンがグリシャを操るために使えるものでなければなりません。
- エレンは過去の継承者の記憶を自由自在に見ることが出来る
- エレンは好きな記憶を選ぶことが出来る
- エレンは好きなタイミングで記憶を送信することが出来る
- グリシャは送られてきた記憶を強制的に見る羽目になる
- エレンが記憶送信をしない限り、グリシャはエレンの記憶を見ることは不可能
最低でもこのような条件を満たす必要があります。
第一に、エレンは過去の継承者の記憶を自由自在に見ることが出来なければなりません。過去に何があったかわからないと過去に記憶を送る意味がないからです。これは進撃の巨人単体では実現不可能なので、強引だとしても始祖の巨人の力によって可能になっているとするしかありません。
次に、ただ記憶を送るだけではダメです。なぜならグリシャがその記憶を見てくれるとは限らないからです。なので強制的に記憶を見るまでを一気に実現させるものでなければなりません。
また、余計な記憶を見られては困るので、エレンが記憶送信能力を使わない限り、グリシャはエレンの記憶を一切見ることは出来ないという設定である必要があります。
これはほとんどテレパシーのようなものです。始祖エレンのラジオ放送とか仲間を道に呼びよせたあの力に近いと言えるでしょう。
しかし、時を超えて記憶を扱うため、その複雑さは数段上です。
記憶送信能力の疑問
- 記憶が漏れている
- 記憶ツアーの存在意義
記憶が漏れている
グリシャが髭面おじさんのジークに気づく場面がありますが、これはグリシャがエレンの記憶を見ていることを示しています。
エレンはこの現象に驚いているので、意識的に何かした訳ではないはずです。
つまり、エレンは記憶送信能力を使っていないにも拘わらず、グリシャに記憶を見られてしまったのです。
エレンはグリシャに記憶が漏れないように何か手を打たなければなりません。
前提が崩れてしまいました。
問われる記憶ツアーの存在意義
救済措置として「エレンが意識すれば記憶が漏れるのを防げる」という設定を新たに加えて続きを考えます。
エレンはグリシャに記憶が漏れないように意識しつつ、グリシャに必要な記憶を見せるタイミングを伺いながら記憶ツアーを進めていったことにしましょう。
ここでまた新たな疑問が生まれます。
いつでも好きな記憶をグリシャに見せることができるのであれば、無理して記憶ツアー中の礼拝堂地下のあの場面で「父さんが始めた物語だろ」を実演する必要はないのではないでしょうか?
事前に音声を収録して、後で好きなときに送信すれば良いのですから。
そうなると、礼拝堂地下入場直後、グリシャがフリーダに「壁に攻めてきた巨人を殺してくれ」と頼む下りがすごく間抜けに見えてしまいます。それをわざわざ言わせる必要があるのでしょうか?
緊張感を出すために、好きなタイミングで記憶を送信することはできないということにしたほうが良さそうです。
また1つ新しい疑問が生まれました。
特定のタイミングを狙ってグリシャに影響を与えて操りたいのであれば、しかもエレンがその場(記憶上の)に立ち会っていなければならないのであれば、記憶送信などという回りくどいことはせず、直接心に語り掛けるような力のほうが適しているのではないでしょうか?
「いや、それが出来ないから記憶を使うのだ」と言われるかもしれませんが、だったら原作通り、グリシャが「未来の記憶」を見ていることを逆手に取ってエレンが行動するという形のほうが、「記憶」という設定を上手に使えていると思います。
…なんだか原作の描写と噛み合わず、ちぐはぐな感じになってしまいました。エレンは記憶送信能力なんて持っていないのではないでしょうか?
なぜこのようなことになるのかというと、エレンが自由自在に使える記憶送信能力というものが、記憶ツアーという特殊な状況を利用する物語上の仕掛けと相性が悪いからです。
かといって、記憶送信能力は限られた条件下でのみ使用可能だとしても、その条件が不確かであることや、能力自体が意味のないものであることに変わりありません。
ちなみに、始祖掌握後のエレンが過去に遡って色々と操作していたとか、ミカサが過去に記憶を送っていて云々というような解釈がありますが、これらも記憶ツアーのようなものとの相性は最悪です。
記憶を見せる(送る)力の存在を証明するのはとっても大変
もしこの記憶送信能力が実際にあるとすれば、絵やセリフで実際にそれが行われているということを読者が理解するのは大変困難になるだろうと想像されます。
エレンが『「父さんが始めた物語だろ」の記憶』を思い浮かべるコマがあり、またそれと同じものをグリシャが「エレンに見せられた記憶」として見ていると明らかにわかるコマが出てきて、その後にグリシャがエレンの狙い通りの行動をしたとしましょう。
しかし、それは必ずしもエレンに見せられたからグリシャがその記憶を見たということにはなりません。どこまでいっても間接的な影響である可能性が残ります。それが払拭されなければ、「エレンが記憶を見せる能力を使った」とは言えません。
かといって、エレンが「進撃(始祖)には記憶を選択して見せる力があるのだ!エターナル・リカーレンス!」などと事前に宣言してからその力を使い、かつグリシャが「今、私はエレンが選択した記憶を、エレンが使った力によって見せられているぅぅ!くそっ、体が勝手に…!」と宣言して巨人化するなんて、あまりにも冗長で誰も読みたくないでしょう(それが伝統芸能として昇華されている奇妙な冒険マンガもありますが)。
しかし、そこまでやらなければ、エレンが記憶を選んでグリシャに見せて操った、とは言えないのです。
例えばドラゴンボールの魔人ブウ編で、魔導士バビディが魔人ブウに街を襲わせて、その様子を悟天やトランクスに超能力を使って見せる場面があります。悟天とトランクスは目を瞑ると魔人ブウが暴れる映像が見え、バビディと話すことも出来る形です。
かなりシンプルに表現されていると思いますが、これですら悟天やトランクスは自発的に目を瞑るというワンクッションがなければ魔人ブウの映像を見ることができないようになっています。
「エレンが進撃か始祖の力を使って記憶を選別してグリシャに強制的に見せて操る」というのは、バビディの超能力をはるかに凌ぐ手続きの猥雑さがあるのです。
それに比べて、グリシャは絶対に記憶を見るという前提があり、それを利用してエレンが行動する、というシンプルな形にまとめられた記憶ツアーの描写は本当に見事だと思います。
記憶は自分の中にある?
記憶を見せるということを軸に考えるとうまくいかないので、記憶はあくまでも自分が見るものだとするのが良いような気がします。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻88話「進撃の巨人」
あたかも「ユミルの民」とは皆一様に見えない「何か」で繋がっていると考えざるをえない
ある継承者は「道」を見たと言った 目には見えない道だ
巨人を形成する血や骨はその道を通り送られてくる
時には記憶や誰かの意思も同じようにして道を通ってくる
道はどこにあるのか
全ユミルの民が繋がる座標系(道同士の繋がり)はユミルの民一人ひとりの中にあると考えられます。
エレンにしろアルミンにしろ、一人のユミルの民は座標系の一部でありながらその全てを自分の中に持っている、というイメージです。
だから誰かの意思を感じたり記憶を見ることがあるのだと思われます。
あるいは、どんなやり取りも必ず始祖の巨人を経由している、とするほうがシンプルかもしれません。
知性巨人継承者同士が記憶を見やすいというのは、その繋がりが近くて深いからなのではないでしょうか。
ヒストリアが父ロッドの記憶やユミルの記憶(アニメ版のみ)を見た例がありますが、それは彼女が王家の血筋であることも関係していると考えられます。
見るのは自分
記憶ツアー中、グリシャがレイス家礼拝堂で慌てふためいているとき、後ろで見ているエレンの鬼の形相に気がついてメガネが光ったところなんかは「エレンの意思」が伝わっていると考えられます。
グリシャは予め記憶を見ていますので、あの瞬間に初めてエレンの意思が伝わったというのではなく、本人の中で眠っていたものがぶり返してきたという感じだと思われます。
始祖ユミルがミカサの頭を覗いていたということが最終話で明らかになりましたが、おそらくこれが頭痛の原因になっていたと考えられます。
終盤、ミカサは頭痛の度にエレンの人拐い殺しの記憶を見ていましたが、あれは始祖ユミルに見せられているのではなく、ミカサが自分の記憶の中あるエレンを自分で見ているのです。
始祖の巨人の力はビリビリによる活性化?
始祖の巨人の力の本質的なところは、ビリビリを流すことだと考えられます。ユミルの民同士が「活発に繋がっている状態を作り出す」ことです。
そこから先、記憶を改竄するとか無垢の巨人を操るというのは二次的な作用であって、根本的なところは道の繋がりを活性化するという話なのではないでしょうか。
記憶の改竄は一部の導線の活性化を弱めているに過ぎないと考えれば、ヒストリアの記憶がわりとすんなり戻ったことも納得できるでしょう。壁内人類の記憶の改竄の場合は、スタートで接続を切られればその後に情報を追加しない限りは「知らないものは知らない」という当たり前の話に落ち着きます。
また「巨人を操る力」に関しては、「王家の血筋」であるジークが器用に「命令」出来ていたのに対して、女型の巨人や座標発動時のエレンが細かい操作ができなかったことも話が通ります。始祖の力はメインは活性化であり、命令に関しては王家の血筋が重要みたいな感じです。
マルセルの記憶を見たポルコ
©諫山創 講談社 進撃の巨人 119話「兄と弟」
ライナーとポルコが接触(接近)することで、ポルコが「マルセルがライナーに謝っているときの記憶」を見ています。
マルセル視点の記憶はポルコの中にある「顎の巨人として継承しているマルセルの記憶」、ライナー視点の謝るマルセルは「ライナーの記憶」でしょう。
2人の記憶が混ざった感じで描かれていることに意味があるのかそうではないかは気になります。
多分このときのライナーは必死なので無我夢中、つまり無意識で行動しています。確信を持っている訳ではなかったと思います。
ここの解釈は複数のパターンが考えられます。
- ライナーとポルコが道を通じて繋がり記憶を共有した
- ライナーはエレン(始祖)と接触中だったので、ポルコを刺激してマルセルの記憶を見られる状態にできると感じたからやった
- エレン(始祖)がライナーを使ってポルコの中のマルセルの記憶を呼び覚ました
等々…
この現象はエレン(始祖)が関わっているから起きたとするのが妥当ではないでしょうか。
そもそもライナーが単独でポルコに記憶を見せることが可能なら、もっと前にさっさとやっていたはずです。そうすればいつまでもグジグジと嫌味を言われることもなかったのですから(それをやらないからライナーは英雄なのかもしれませんが…)。
始祖を保有するエレンとライナーとポルコが接触したことで、ライナーとポルコの中にある記憶が呼び覚まされた、という感じだと思われます。
ただし、必ずしも始祖の力がなければこのようなことは起きないという訳でもないようです。
ヒストリアとロッド・レイス(巨人)
ヒストリアはロッド巨人にとどめを刺したときにロッドの記憶を見ています。
2人は親子ではありますが同じ知性巨人を継承している関係ではありません。
2人共王家の血筋だからなのか、ロッドが巨人だったからなのか、原因の特定は困難ですがとにかくヒストリアは間違いなくロッドの記憶を見ています。
すべてのユミルの民は繋がっており、血縁者や知性巨人継承者は繋がり・活性が強いが、そうではない者はそれが弱いということなのかもしれません。
アルミンとアニ
アルミンがアニをお触りしようとしたのは自分の中に眠る記憶を掘り起こすことが複数ある目的の中の1つだったと思われます。
もしアルミンがアニの水晶体に触ってベルトルトの記憶を見ていたのなら、始祖の力は必ずしも必要という訳ではないことになります。
ヒストリアと104期ユミル
アニメ版のみの演出ですがヒストリアが104期ユミルからの手紙を読んだときにビリビリが発生しました。
ヒストリアが手紙を触ることが、記憶を見ることのトリガーになっていると思われます。
104期ユミルがいくら頑張っても、ヒストリアが手紙を触らなければ記憶を見ることはない、ということです。
まとめ
ダイレクトに記憶を見せる(送る)者はどこにもいません。そのような力も存在しません。
記憶は自分の中にあり、自分で見るものです。
他人の記憶であっても、それは自分が見るものです。
あるのは「記憶を見るきっかけ」を与える「何か」であり、その筆頭候補は始祖の力ということになるでしょう。
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