道と座標
138話までのネタバレを含みます。
進撃の巨人の不思議な世界観の根幹をなす「道」と「座標」について考察します。
一体何が「道」で何が「座標」なのか。どんな仕組みになっているのか。
こういうイメージなのでは?ということを考えてみました程度の話です。
道と座標のイメージ
クルーガーによれば、すべてのユミルの民は「道」で繋がっています。そして、すべての道が交わる一点が「座標(始祖の巨人)」です。
道と座標をあの光の柱を模して図にすれば上のようなイメージになるでしょう。
始祖の巨人が座標(0, 0)で、鎧が(1, 3)、女型は(2, 3)…… という感じで位置が決まっていると思われます(何次元なのかわからないのであくまでも喩えです)。あるいはそれぞれ ID(識別番号)が割り振られていると考えても良さそうです。
このように繋がっているからこそ、原点である「始祖の巨人」は全てのユミルの民に対して影響を与えることが出来るのだと考えられます。「獣」や「女型」は「始祖の巨人の縮小版」です。
大量の巨人を操るとか、壁内のユミルの民の記憶を改竄するというも、全てこの仕組があるからこそ成立します。
ツリーのイメージなのであれば、ユミルの民同士の繋がりは常に始祖を経由して何かしらが伝わるということになるのでしょう。
あるいは縦だけではなく横の繋がりもあるのだとしたら、網目状のものが基点から末端に向けて広がっていくようなイメージなのかもしれません。神経細胞のシナプスのように、互いに影響を及ぼし合う感じに近いのではないでしょうか。
道は砂漠?光の柱?
「道」とはあの砂漠のような場所のことでしょうか?
あるいは光の柱が枝分かれしているようなアレでしょうか?
おそらく両方です。
そもそも「道」では時空が歪んでいるような雰囲気もあるのであまり深く考えてもしょうがないような気がしますが、おそらく以下のような感じだと思います。
遠くから見れば光の柱だけど近くに寄っていけば砂漠になっている。そして、自分の立ち位置から中心と思われる方向に光の柱が見えるが、実はその光の柱が枝分かれして伸びた先のどこかに自分が立っている。虹みたいなもの。
歩くことも出来るので移動している実感はあるが、本来の立ち位置(「道」上の位置)は変わっていない。
このように考えれば、見渡す限り砂漠が広がっていることも、中心部と思われる方向に光の柱の根本が見えるということも、両方納得がいくのではないでしょうか。
- 道 → 砂漠でもあるし、光の柱でもある
- 座標 → 道の中心部(原点)。光の柱の根本周辺
始祖の巨人=座標と言われる理由
「座標」は座標(0, 0)。立ち位置を示している?
作中で「始祖の巨人=座標」と言われている理由は、「ユミルの民という座標系」の中で「始祖の巨人が座標の原点」であるということ、つまり2次元でいえば(0, 0)だからなのだと考えられます。
「道」の上の立ち位置を示しているようなものでしょう。
進撃や鎧、女型ら知性巨人…その他一般のユミルの民はそれぞれ担当位置が決まっていて、原点(0, 0)には「始祖の巨人でなければ立てない」ということです。
なぜライナーに「座標」と言わせたのか?
ライナーは「座標」という言葉を「始祖の巨人の力」という意味合いで使っています。
なぜわざわざこんな紛らわしい言い方をさせたのでしょうか?
始祖の巨人の機能
始祖の巨人は、座標(0, 0)の位置から他の巨人やユミルの民に影響を与えることが出来ます。(0, 0)という位置に特別な意味があるのです。逆に(1, 3)とか(3, 9)にはあまり意味がないということでもあります。
ライナーは 座標(0, 0) を省略して 座標 と呼んでいるのだと考えられます。なぜならマーレの英才教育を受けたエリート戦士ライナー・ベルトルトにとって始祖の巨人が道の原点であることは自明なのであえて値を口に出して言う必要はないからです。
仮に鎧と獣のそれぞれの座標が(0, 3)、(1, 5)だとしても、わざわざ値を使って呼び合ったりしないのではないでしょうか。覚えにくいし紛らわしいだけです。
だったら「座標(0, 0)」も「始祖」と言えばいいじゃないか、という話になります。
しかし、そこは物語の展開やタネ明かしのタイミングの都合があったのではないでしょうか。
叫びの力
©諫山創 講談社 進撃の巨人 12巻47話「子供達」
「座標」という言葉が初めて登場したのは12巻47話「子供達」でライナーが正体をバラしてエレンを拐い逃げているときに巨大樹の森に寄った場面です。
ライナーは「始祖の巨人」を「座標」と呼ぶことに拘っていたように見えます。ヒストリアのことをいつまでもクリスタと呼んでいたり、やたら「兵士」と口にしたり、言葉を大切にする男です。
それはさておき、なぜこんなややこしいことになっているのかといえば、作者が「始祖の巨人」の存在をボカしつつ、機能的な特徴である「座標」を強調したかったのではないでしょうか。
エレンはダイナ巨人と接触し周囲の巨人をコントロールしてピンチを脱出しますが、あれはまさに「始祖の巨人=座標(0, 0)」だからこそ出来る技です。
始祖の巨人の特徴やユミルの民の繋がりを解明する上で、「座標」という言葉は難易度が高いとはいえ一応きちんとしたヒントになっています。少なくとも答えを知った後なら読めばわかるでしょう。
「東京」の機能に注目して「首都」と呼んだり、野球やサッカーなどでポジションを番号で呼んだりするのと似たようなものだと思います。
王政編で明らかになる王家との関係
©諫山創 講談社 進撃の巨人 17巻67話「オルブド区外壁」
「始祖の巨人」という名称が初めて登場するのは17巻67話「オルブド区外壁」です。ハンジがエレンの中の巨人の力を称して「始祖の巨人」と命名しました。
始祖の存在を明かすタイミングをレイス家(王家の血筋)が登場するまで引っ張りたかったのだと思います。
本格的に始祖の巨人が特別な存在だと言われるようになったのはグリシャの手記による回想が始まる21巻86話以降のことになります。
そして極めつけは22巻88話「進撃の巨人」です。「すべてのユミルの民が道で繋がっており、その道が一つの座標で交わり、その座標こそが始祖の巨人である」ことが明らかになりました。
ここで初めて「ああ、ライナーが言っていたのはそういうことなのね」と理解できます。
全ての巨人(ユミルの民)に影響を及ぼす力をエレンのような凶暴なやつが持ってしまうのは不味いのです。
ジークが言う「座標」
27巻110話でジークが言う「座標」はライナーが言っていたのとは違います。
「座標が刻み込まれる」というのは、ジークの脊髄液を摂取したユミルの民それぞれが「獣の巨人の座標系」に登録されるということでしょう。
ジークを基準(0, 0)とし、Aさんは(1, 1)、Bさんは(1, 2)、Cさんは(2, 2)というようにそれぞれ被らない独自の値を与えられる、という感じだと思います。
要は普通の座標です。
女型の巨人の叫び
巨人をコントロールすると言えば、女型の巨人も無垢の巨人を呼び寄せることができます。
女型の場合は近くにいる者を自分のところに集めるだけなので、ジークの獣の巨人のような複雑さはないように感じます。
詳細な座標の値は必要はなく、互いの距離さえわかればそれで良いということなのではないでしょうか。つまり新たに独自の座標系を構築する必要はないということです。
実際、原作で女型がこの力を使った場面では、呼び寄せた無垢の巨人たちに予め何か仕掛けを施していた様子はありませんでした。
始祖の巨人でなければ座標には行けない
始祖の巨人とは座標であり、座標とは道の原点です。
これはつまり「始祖の巨人の継承者」でなければ、「道」に飛んでも「座標」には行けないということでしょう。
なぜなら始祖の巨人の立ち位置は予め決まっていて、始祖継承者以外はそこに立つことが不可能だからです。エレンとジークのように始祖&王家の抜け道を使わない限り、2人以上の人間が座標に立つことは出来ないと考えられます。
120~122話でエレンとジークが始祖ユミルと色々やり取りした光の柱の根本周辺がまさに「座標」です。
アルミンやミカサ達は光の柱が見える位置には居られても、根元周辺には近付けません。感覚的には遠くに見える虹みたいな感じだと思います。
ただ単に絵を見ても距離感なんてわからないのですが、いくつか根拠になりそうな描写があります。
エレンと始祖ユミルの元に辿り着けないミカサやアルミン
走り出すミカサ、アルミン、ジャン、コニー。後ろにはリヴァイ達がいる。
光の根本を目指して走り続ける。
後ろにリヴァイ達が居たはずなのに……
なぜか元の場所に戻ってきてしまう。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 33巻133話「罪人達」
133話でアルミン達はエレンに呼ばれて道に飛びます。
このときアルミン達はいくら走ってもエレンに近づくことが出来ず、同じところをグルグル回っているような感じになってしまいました。
この一連の描写は 「始祖の巨人」でなければ座標に到達できない、 という道の構造をマンガで表現しているのではないでしょうか。
道に行けても座標には行けないアルミン
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻136話「心臓を捧げよ」
136話でアルミンは『ここは「道」 ここは現実だ』と言っています。
自分が今「道」に居ると理解したのでしょう。
いまいちはっきりしなかったあの砂漠が「道」だということが確定した瞬間です。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」
一方、120話ではジークは『すべての「道」が交わる座標…だと思う』と言っています。
2人が居た場所は同じ砂場に見えますが、実は違うのです。
アルミンが居るのは「道」、ジークが居るのは「道の中心(すべての道が交わる座標)」です。
砂漠全体が道でその中心が座標という感じだと思います。
両者の何が違うのかと言えば、「始祖と王家」です。
エレンとジークは始祖の巨人と王家の血筋の力によって「座標」に到達しました。
しかしアルミンは始祖の巨人でもないし王家の血筋でもないので、「座標」ではなく「道のそこら辺(超大型巨人の位置?)」に到達したということです。
道で起きる不思議な現象
道は時空が歪んでいるような感じなのだと思われます。
- 道は現実
- 下界と通信可能
- 死がない
- 過去も未来も関係ない
- 時間が無限(?)にある
- 何でも作れる
- 人によって見えるものが変わる
- 無意識状態になると行ける?
道は現実
アルミンが言うからにはそうなのでしょう。
精神世界ではなく、進撃の巨人の世界において「道」は現実なのです。
ここで起きる不思議なことは全て現実として捉えなければなりません。
では「道」ではない、いわゆる現実世界は何と言えば良いのでしょうか?
「下界」としておくのが妥当かもしれません。
下界と通信可能
136話のアルミンは道に居ながらにして仲間たちの様子を把握できていました。138話でミカサがエレン本体の位置がわかったのも同じ原理かも知れません。
123話、131話、133話では、エレンはユミルの民を一旦道に呼び寄せる形でメッセージを送っています。またアルミン達の声もきちんと聞こえているようです。
死がない
137話のアルミンとジークの会話の中で「死の存在しない世界」という言葉が登場しました。
ユミルの民は死んだ後、道に飛んで永遠のときを過ごすのでしょうか?
一般人はどうかわかりませんが、知性巨人継承者はその可能性がありそうです。
過去も未来も関係ない
88話「時には記憶や誰かの意思も同じように道を通ってくる」というセリフ。
120~121話の記憶ツアー(グリシャの記憶を巡る旅)。
進撃の巨人の特性を考えると、道には過去未来関係なく記憶が保存されていると言えそうです。
時間が無限(?)にある
道は下界と時間の流れ方が違うようです。道で何年かかろうが下界では一瞬だったりします。
120話でジークがエレンを待っていた描写があるように、道にいたとしても人それぞれ時間の進み方が違うようです。
何でも作れる
120話でジークは鎖を作ったり壊したりしました。137話の葉っぱとボールも同じ原理だと思います。
138話に登場したエレンとミカサが住む山小屋も道が作り出したものかもしれません。
人によって見えるものが変わる
137話。アルミンには葉っぱに見えるものがジークにはボールに見えていました。
無意識状態になると行ける?
エレンに呼ばれたときは違いますが、それ以外はみんな無意識に近い状態で道に飛んだり記憶を見ているようです。また、巨人の力を使っているときはおそらく無意識に近いのではないかと思います。
54話のヒストリアは眠っているときにフリーダの記憶を見ています。エレンも1話や87話ほか、多くの場面で眠っているときに様々な記憶を見ました。
136話のアルミンは窒息して意識を失って道に行きました。
138話のミカサは頭痛が激しくなって道に行きました(理想の世界はおそらく道)。エレンも激しい頭痛を起こしてグリシャの記憶を見たことがあります。
例外?
- ハンジやエルヴィンの周りに立つ死んだ兵士たち
- 127話冒頭のジャンの妄想らしき描写
- 132話ハンジを迎えるエルヴィン達
これらが道や記憶にまつわるものなのか不明ですが、無関係とも思えません。