記憶ツアーでグリシャが見ていた未来の記憶

120話「刹那」121話「未来の記憶」で描かれるジーク主催のグリシャの記憶ツアー(記憶の旅・記憶巡り)の仕組みや謎についての考察です。

進撃の巨人の特性や「未来の記憶」の存在が明らかになり、強烈な伏線回収がある重要なエピソードですが、不思議な描写のせいで非常に難解な印象があります。

あそこで何が起きていたのか、グリシャはどのように記憶を見ていたのか、どこまで見ていたのか、またエレンがグリシャに記憶を見せていたのかそうではないのか、ということを中心に考えます。

記憶ツアーはエレンとジークがタイムトラベルしているのではなく、あくまでも「エレンの中のグリシャの記憶」を通してグリシャの過去を見ているだけです(とはいえ普通に記憶を見る形とは違うことは事実で、何とも言えない不思議さがあります)。

また、グリシャがエレンとジークの姿を見ているような描写が登場しますが、これは肉眼で実物を見ているわけではありません。

グリシャはジークの姿を「エレン視点の記憶」を通じて認識していますが、記憶の主であるエレンのことはそこに居るのはわかっても姿は見えないため立ち位置を計算してその方向を見ているという感じです。

グリシャの焦点が微妙に合っていないことからそれがわかります。

またグリシャは2人と会話しているわけではなく、互いが一方的にしゃべっているだけだと思われます。

関連

なぜ過去の継承者に記憶を送る能力は存在しないのか

「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」とは?

なぜ「未来は変えられない」のか

目次

グリシャが見ていた未来の記憶

記憶ツアー図解

グリシャは「記憶ツアー中のエレンの記憶」、つまり「エレン視点のグリシャの行動の記憶」を見て、その記憶に影響を受けて行動しています。

なぜなら、エレンとグリシャの記憶は共有されており、進撃の巨人の継承者は未来の継承者の記憶を見ることできる(見ることがある)からです。

835年にエレンが生まれてから、845年にレイス一家を惨殺して始祖を奪い、記憶の中のジークに抱きつき「エレンを止めてくれ」という言うまでのグリシャの一連の行動は、「エレン視点のグリシャの行動の記憶」と全く同じものになります。

854年にエレンとジークは座標にやってきてグリシャの記憶の中に入り込み、「エレン視点のグリシャの行動の記憶」と全く同じように行動するグリシャを目にし、そして自分たちも「グリシャを見ていたエレンとジーク」として全く同じように行動します。

そしてそれを見ていたエレンの記憶は、グリシャが見ていた「エレン視点のグリシャの行動の記憶」となります。

これらが一挙に、同時に、一発で揃っていなければ記憶ツアーは成立しません。どちらも変更してはいけないのです。

卵が先か鶏が先かという話で言えば、どちらも相手に対して先行して存在しています。マトリョーシカとか、合わせ鏡とか色々な喩えがありますが、過去と未来が同時に存在するというのはこういうことです。

グリシャの行動は「既に起きていたこと」です。そして、そのグリシャは「エレン視点のグリシャの行動の記憶」に影響を受けて行動しています。ということは、エレンとジークの行動もまた「既に起きていたこと」でなければなりません。

ただ単にグリシャに対してエレンが先行しているだけでなく、エレンに対して先行する「グリシャが見る記憶の中のエレン」もまた、「既に起きていたこと」として存在しなければならなのです。

つまりこの記憶ツアーが行われることは、最初から決まっていた ということになります。エレンとジークの行動が過去を変えている訳ではありません。すべて織り込み済みです。

一見過去を変えたように見えるエピソードが、過去や未来は変えられないことを決定づけているという見事な構成になっています。

記憶ツアーの仕組み?

記憶ツアーの細かい仕組みは作中で説明されていません。

普通じゃないことがわかるのは、ジークとエレンが見ている光景はグリシャ視点からのものではない、という点です。グリシャが生きていたあのときのあの場所に2人がいるという形になっています※。

また、記憶ツアーを始めたのはジークです。この不思議な舞台は、ジークが「エレンの中にあるグリシャの記憶」を使って作り出したものということになるでしょう。

なぜジークにそのようなことが出来るのかと言えば、ジークが始祖の力を使える状態にあること、またエレンとジークが座標にいることが理由だと考えられます。

重要なのは、ジークがグリシャに対して複雑な感情を持っており、その上でエレンの洗脳を解くために拒否されつつも無理やり記憶ツアーを始めたということ、そしてその結果グリシャが未来の記憶を見ることになってしまった、という流れなのではないでしょうか。

※似たような例として、138話のエレンとミカサのスイス風山小屋での暮らし、最終話のエレンとアルミンの炎の水・氷の大地・砂の雪原ツアーがありますが、これを作り出しているのも始祖の力なのだと思われます。

グリシャはどこからどこまでの記憶を見ていたのか?

記憶ツアー図解。年表

グリシャがどこからどこまでの記憶を見たのか、詳細は描かれていないのでわかりませんが、大雑把に言えば上の図の①と②の2セットだと思われます。

条件さえ整えばグリシャはどれであろうがエレンの記憶を見ることが出来ると考えられます。ただし、いつでも好きなように好きな記憶を狙って見られる訳ではなく(つまり条件を正確に知ることは不可能)、何らかのきっかけにより本人が強く意識していること、またそれに関連する記憶を見ることになるという点は、他のキャラクターと同じです。

なぜグリシャが「エレン誕生直後〜レイス一家惨殺までの記憶」を見たのかというと、ジークが見たかった(エレンに見せたかった)のが、壁内でエルディア復権派の任務に奔走しエレンを洗脳していくグリシャの姿だからでしょう。同時にこれはグリシャ本人が強く意識していることでもありました。

壁の王の根城を見つけながら復権派の務めを躊躇うグリシャ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

グリシャは復権派の任務を躊躇っていました。それが原因で始祖を奪うまでは①より先の記憶(始祖奪還後の記憶)を見ることがなかったのだと考えられます。わかっちゃいるけど…的なやつです。また、ジークが始祖奪還以降の記憶を見ることを想定していなかったからという可能性もあるでしょう。

②の記憶(エレンの先の記憶)を見ることが出来た原因は、グリシャがフリーダから始祖を奪い、始祖の巨人をその身に宿した状態で王家の血を引く子どもたちに触れたこと、また、本人が吹っ切れてエルディアの将来を真剣に心配したからだと考えられます。

エレンがグリシャの気持ちに気づいた瞬間?

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

記憶ツアー前半、ジークはグリシャがエレンを愛している様子を見て拗ねていました。

その一方で、エレンはこのとき、グリシャが始祖奪還を躊躇う最大の理由がジークであることに気づいてしまったのだと思います。マーレ潜入時にグリシャとフェイのことで狂ってしまった祖父に会ったのは、その前フリなのではないでしょうか。

夢から記憶への認識の変化

グリシャがどのタイミングで記憶を見たのか、ヒントになりそうなセリフや表情があります。

グリシャが記憶を見ているらしき描写

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」121話「未来の記憶」

グリシャのこの顔は、記憶を見たサインだと考えられます(このサインがなければ記憶を見ていないという意味ではありません)。

120話では、「ジーク… そこに…いるのか?」と言った後、この顔になりました。眠っているときにジークの姿を記憶を通じて見たけれど、目を覚ました後は肉眼では見えなかったため、このような表情になったのでしょう。

121話では、この顔をする前に勲章授与式のヒストリアの手が描かれており、その後「なぜ…すべてを見せてくれないんだ」がきて、「エレンの先の記憶を見た」と話す流れになっています。

1つ気になるのは、120話ではこの顔の後「ただの夢だ」と言っていることです。眼の前にジークの姿が見えたはずなのに居なかったから自分が見たのは夢だと思ったのでしょう。

グリシャが髭面おじさんをジークと認識する

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

エレンは地下廊でグリシャの記憶を見て目が醒めた時、「すっげー長い夢を見ていた気がするんだけど……」と言った後、「夢じゃねぇ…記憶だ…」と気づきました(87話)。

エレンは何度か記憶を見る体験をしていますのですぐに気づきましたが、グリシャは120話の段階ではまだ夢と記憶の区別がついていなかったと考えられます。そこから何年も経った後になりますが、グリシャは礼拝堂地下で『「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる』とはっきり言っていますので、夢から記憶へと認識の変化があったことがわかります。

もう1つの可能性として、グリシャはそれ以前から想定の範囲内で未来の記憶を見ていたけれど、急に見るはずのないジークを見たことに戸惑って夢だと思ったということもあり得るでしょう。そうであれば、かなり早い段階でレイス家礼拝堂を早く見つけていたことは記憶の影響ということになるかもしれません。ジークを見たのが最初の未来の記憶の体験であるという証拠もない訳ですから、曖昧にしておくのが良い気もします。

いずれにせよ、わざわざ2コマ使って、しかも2話連続で同じ表現がされていますので、これは「記憶を見たサイン」であることはほぼ間違いないでしょう。

仮に髭面事件の段階ではグリシャは記憶を夢と認識していたとする場合、彼はどのタイミングで自分が見たものが夢ではなく記憶だと気づいたのでしょうか?

グリシャが地下室の机の鍵をエレンに見せる

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

地下室の机の鍵をエレンに見せる場面のグリシャは明らかにエレンに見られていることをわかっている様子です。

遅くともこの時点で夢だと思っていたものが実は「エレン視点のグリシャの記憶」であると気づいていたと考えられます。

レイス家礼拝堂地下でのグリシャの不審な挙動

  1. 壁に攻めてきた巨人を殺してくれとフリーダにお願いする
  2. 一旦断られるも、再度食らいつき、喚き散らす
  3. 再び拒否され、後ろで見ているであろうエレンの方へ視線を向ける
  4. メガネが光り、「王に抗う」だの「進撃の巨人の特性」やら何やらをしゃべり巨人化しようとする
  5. 覚悟が決まらずナイフを落とす
  6. エレンの「立てよ父さん〜」によって、意を決して巨人化

グリシャが怯えたようにエレンのほうを振り返ったり、進撃の特性や未来の記憶の下りを流暢に語ったことはどう捉えれば良いのでしょうか?

以下のような解釈が考えられると思います。

  • ①リアルタイムでエレンがグリシャに記憶を見せている
  • ②グリシャは事前に記憶を見ている
  • ③グリシャはエレンがアクションを起こしたタイミングで自分で記憶を見ている

①リアルタイムでエレンがグリシャに記憶を見せている

見方によっては、要所要所で逐一エレンが何か記憶を見せて情報を与えているかのように感じられると思います。

しかし、エレンにとって逐一グリシャの反応を伺いながら小出しに情報を与えることにメリットはありません。コントロール出来るならさっさとやれば良いという話になります。

そもそもエレンが自由自在にグリシャに見せたい記憶を選んで見せることが出来るのか不明です。

②グリシャは事前に記憶を見ている

グリシャは事前に記憶を通じてこの先起こる全てを知っていながら、覚悟が決まらずなかなか実行に移せなかった、というパターンです。

フリーダに諭されることも、後ろでエレンが見ていることも、不戦の契や未来の記憶について語ることも、躊躇ってナイフを落とした後にエレンに怒られることも、全部最初からわかっていながら、それでもやっぱりグリシャやフリーダや小さな子どもたちを殺したくなかった…ということになります。

記憶の見方は他の登場人物と同じになるので特におかしなことはありませんが、コロコロ態度を変えたように見えるところが引っ掛かるかもしれません。

しかし、「そういう未来だと決まっている」という発言がある以上、少なくともレイス一家を惨殺した記憶は事前に見ていたはずです。

③グリシャはエレンがアクションを起こしたタイミングで自分で記憶を見ている

リアルタイムじゃないけど実質リアルタイムパターン。①との違いは、エレンが思うようにコントロール出来ないというところです。

エレンがアクションを起こすタイミングでグリシャの脳内でエレン視点の記憶が再生される…非常に都合の良い展開に思えます。

しかし、かつてエレンは目を覚ましている状態で、グリシャのことを気にしているときに鏡に映るフリーダの記憶を見たことがありました(13巻53話)。また、ミカサとアルミンを砲弾から守るときもちょうど良いタイミングでグリシャに注射を打たれる記憶(エレン自身の記憶)を見たこともあります(3巻10話)。

記憶とは経験でもあり、意識・無意識問わず必要なときに思い出して行動に活かされるものです。

エレンのような知性巨人継承者が誰に教わるでもなく巨人化の方法を知っているのは、先代から記憶を受け継いでいるからでしょう。

これは断片的な映像の記憶であっても本質的には変わらないものであり、グリシャは未来の継承者であるエレンの記憶を経験として保持していることになります。

また、グリシャが見る見ないに関わらず、記憶は既に最初から全部用意されていると考える必要があります。2000年分、ユミルの民全員分の記憶は既にあるのです。過去も未来も無く同時に存在するのですから、そういうことになってしまいます。

したがって、グリシャの中には、エレンが「父さんが始めた物語だろ」と言う前から、「父さんが始めた物語だろ」の記憶は既にあるということになります。しかもそれは自覚があろうがなかろうが経験済みの出来事としての記憶です。

記憶を見られるかどうかはグリシャ次第ということになりますが、いざフリーダを目の前にした極限状態のあの場面で、「父さんが〜」と言われたあのときに、「父さんが〜」の記憶を見ないなんて話があるのでしょうか?

「父さんが〜」はたとえ未来の記憶だとしても「巨人化する方法」とその性質は変わらないわけですから、いざその時が来たら思い出してしまうのはむしろ自然なことだとも言えます。

どれも腑に落ちないような感じが残るかもしれませんが、このような事態を招いているのは進撃の巨人の特性にあると考えられます。

進撃の巨人継承者のシンクロ

進撃の巨人の継承者同士の記憶は過去から未来だけでなく未来から過去へも繋がっています。

そのせいか、彼らはまるで多重人格かのような振る舞いを見せることがあります。

つまりレイス家礼拝堂地下でのグリシャの不審な挙動の原因は、エレンやクルーガーの影響があったからだと考えられます。

グリシャとエレンのシンクロ

グリシャがジークの存在に気づく

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

グリシャは居眠りしてる最中に記憶を見て目を覚まし、目の前に立つジークの存在に気付いたかのような素振りを見せます。

これはエレンの視線の先にジークが立っており、その光景を記憶としてグリシャが見ているから起きた現象です。

グリシャが髭面おじさんをジークと認識する

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

不思議なのは、グリシャは見たこともないはずの髭面おじさんをジークだと感じたことです。直後に否定していることから、本人はおかしなことだと自覚しているのがわかります。

なぜこのようなことが起きるのかというと、記憶の主であるエレンが髭面おじさんをジークだと認識しているからです。

これはエレンとグリシャがシンクロしていることを示しています。記憶が共有されると、その情報が自分のものになり思考や行動に影響を与えるようになってしまうのです。

つまり、グリシャはこの時を境に「髭面おじさんが誰だかわからないグリシャ」から「髭面おじさんはジークだと知っているグリシャ」に変わったということです。

エレンもこの出来事の直後、ジークのことを「兄さん」ではなく、「ジーク」と呼び捨てにしていました。グリシャに影響を受けていると考えられます。

人は以前誰かに教えてもらった知識を後にさも自分で考えついたことかのように他人に語ってしまうことがありますが、あれと似たようなものでしょう。

グリシャと繋がって人が変わるエレン

©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻87話「境界線」90話「壁の向こう側へ」

エレンがグリシャの記憶と繋がって、自分のことを「私※」と言ったり、海に向かう途中に遭遇した無垢の巨人を見て「オレ達の同胞」と言ったりしているのも記憶の共有がもたらす影響です。

エレンは地下室到達以降徐々に人相が変わっていきましたが、グリシャも同じく髭面おじさん事件以降、エレンとのシンクロが深化・進行していったのだと考えられます。

※私はダイナかもしれません。

地下室を見せてやろう

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

グリシャはエレンの姿が見えているのではなく、「エレン視点のグリシャの記憶」を見ているからエレンの立ち位置を認識できるのだ、ということはわかるでしょう。

しかし、これはリアルタイムで見ているのでしょうか?あるいは時々断片を見ているのでしょうか?

よくわかりません。

もしリアルタイムでずっと見っ放しなのだとしたら、肉眼の映像と記憶の映像が混ざって頭がめちゃくちゃになりそうです。かといって時々断片を見ているにしても、それは何きっかけで見ているの?という疑問が湧いてくるのではないでしょうか。

おそらく、グリシャ(エレン)の精神状態に連動していると思われます。

グリシャの中にはエレンがいて、エレンの中にはグリシャがいます。そして記憶ツアーのせいで同じ時間の同じ場面に2人は立ち会うことになりました。

極端な話、上の画像「地下室を見せてやろう」の左の人はグリシャでありエレンでもあり、右の人はエレンでありグリシャでもある、ということになるでしょう。

見られている気がするのは、自分が今まさに見ているからなのです。

エレンを恐る恐る見るグリシャ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

エレンが後ろで睨んでいる時、グリシャは自分の中にあるエレンの怒りを感じているはずです。だからエレンがいるであろう位置を探って後ろを振り返っています。

グリシャの前に進むエレン

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

グリシャがメガネを光らせて「進撃の巨人の特性」について語っている場面は、グリシャの中でエレンが優位になっている状態だと考えられます。エレンがじわじわと歩いて前に出てくるのはその状態を絵で表現しているのでしょう。

また、その直前にグリシャがおろおろして後ろを気にしたので、エレンは自分が前に進むことによってグリシャの視線をきっちりフリーダのほうに向けさせる狙いがあったと思われます。

エレンとクルーガーのシンクロ

「始祖の巨人だ」でエレンとクルーガーがシンクロ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻88話「進撃の巨人」

エレンとクルーガーがシンクロしている描写も複数あります。

クルーガーがダイナをマーレに渡さず巨人化させた経緯は、エレンがヒストリアを犠牲にしたくないと主張したことと重なるでしょう。

またダイナ巨人との接触はエレンが始祖の巨人の真価を発揮する方法に気づくきっかけになりますが、「あの最期を見る限り間違っていなかったと思う」というセリフはさもそこまで見越しているかのような印象を受けます。

「ミカサやアルミン〜」のところは、クルーガーがエレンに言っているようでもあるし、エレンが自分に言っているようでもあります。

エレンとクルーガーのシンクロ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」22巻88話「進撃の巨人」

エレンの顔が完全にクルーガーです。

「父さん(お前)が始めた物語だろ」の下りでは、グリシャの痛い所を突くにはこれ以上無い言葉がエレンから浴びせられます。

エレンが一方的にフリーダ殺害を強制して操っているかのように見えてしまうかもしれませんが、断る権利を持っていながら最終的に決断して行動したのはグリシャであることは事実です。

それに最初に壁の外に出たのは間違いなくグリシャであり、それがどういうことなのかは本人が一番よくわかっているはずでしょう。

このときエレンは巨人化時の目をしますが、グリシャの巨人化と同期しているという表現だと思われます。29巻115話「支え」でエレンが「感触も残ってる」と話しているように、かなりシンクロ率が高いようです。

この目は何か特別な力(記憶を見せる等)を使ったサインのように見えなくもありませんが、それだったらわざわざ長々としゃべる必要はないのではないでしょうか。

また「躊躇うグリシャ」と「けしかけるエレン」という構図は、操られる人間と操る人間という感じ見えるかもしれません。

しかし、グリシャの中にはエレンがいて、エレンの中にもグリシャがいて、さらにクルーガーも絡んできますので、ある意味1人の人間の葛藤というほうが相応しいのかもしれません。エレンにも躊躇う気持ちがあり、グリシャにもやるべきだという気持ちがあったはずです。

不戦の契と始祖を使えない話

なぜグリシャは不戦の契と始祖を使えないことを知っているのかという謎というか、引っ掛かりポイントがあります。

グリシャがエレンと繋がっているということは、グリシャはエレンの記憶(データ)を元にしてものを考えていることになります。

であれば、変わり果てた髭面ジークをジークとして認識できたように、本来詳しく知らないはずの不戦の契や自分が始祖を使えないことを既に理解している状態になっていたとしてもおかしくありません。

別な解釈もできます。22巻88話「進撃の巨人」のグリシャとクルーガーとの会話で、グリシャは「王家の血を引くユミルの民が巨人の真価を引き出す特別な存在であることはエルディア人の子供でも知っている史実だ」ということを語っていました。また89話「会議」の中で「不戦の契」のせいで壁の王は戦わないということをクルーガーから聞いていました。グリシャがフリーダに話したことは、エレンに教えてもらわなくても言える範囲の内容だと捉えることも出来ます。

エレンが「父さんが始めた物語だろ」を確信を持って言えた理由?

エレンはグリシャがこの記憶を見るかどうかはわからないはずなのに、確信を持って行動しているように見えます。

記憶ツアー中のエレンにとって最優先事項は、ジークの意志を挫くこと+「オレは自由だ」(後述: なぜエレンは「立てよ、父さん」と言ったのか?)なのですが、それにしてもグリシャへの叱責はドンピシャでやる必要があることに変わりありません。

理由として考えられるのは、エレンが勲章授与式の段階で既にこの記憶を見ていた、ということです。

勲章授与式でエレンが見た未来の記憶

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻130話「人類の夜明け」

エレン自身が「父さんが始めた物語だろ」の記憶を見ていたのであれば、グリシャも「エレンがグリシャに声を掛けている記憶」を見ていたことになります。

なぜなら、エレンが勲章授与式で見た未来の記憶はグリシャも見た記憶でなければならないからです。エレンは見たけどグリシャは見ていない未来の記憶は存在しません(グリシャがそれを見ても意味がわからない記憶はあると思われます)。

エレンは「オレは親父の記憶から未来の自分の記憶を見た(121話)」と語っていますので、その辺りの仕組みを理解していると考えられます。

エレンが自分がグリシャをけしかける記憶を見ていなかった場合

130話に登場する記憶の断片だけだと、エレンが「自分がグリシャをけしかける記憶」を最後まで見ていたのかどうかはっきりしません。また、90話(勲章授与式)のときも、グリシャがフリーダに「巨人を殺してくれ」とお願いするところまでしか描かれていません。

エレンが事前に見ていた記憶は「グリシャが巨人化しようとするも躊躇してナイフを落とすところ」までという可能性もあるということです(その後にグリシャが巨人化してレイス一家を殺すことはそれ以前からエレンは知っていますが)。

しかしそうだとしても「既にグリシャはフリーダを殺して始祖を奪いエレンに継承している」という過去の事実は変わりません。

それでもエレンがわざわざ「立てよ父さん〜父さんが始めた物語だろ」と言ったのはなぜなのかといえば、最終的にはあくまでもエレン自身の気持ちの問題+ジークの意志を挫くことであり、「すべてはオレが望んだこと(自分自身の自由の証明)」とするための儀式のようなものだから、ということになるでしょう。エレンが拘ったのは結果ではなく過程です。

エレンの行動が結果的にグリシャがフェイやダイナのことを思い出して覚悟を決めるきっかけになったということです。

詳細: なぜエレンは「立てよ、父さん」と言ったのか?

グリシャが「先の記憶」を見ることができた理由とは?

勲章授与式でヒストリアの手にキスをするエレンと同期して記憶の蓋が開くグリシャ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

グリシャが礼拝堂の外に出てからジークに抱きつくまでの場面の背景には、勲章授与式でエレンがヒストリアの手にキスをする様子が重ねて描かれています。

また、グリシャはフリーダを食って始祖をその身に宿した直後に、ロッドを除く他のレイス一家を殺している、つまり王家の血筋に接触しています。

これがエレンとグリシャが未来の記憶を見たことのヒントになると考えられます。

エレンとグリシャが未来の記憶を見た仕組み

850年のこのとき、エレンは自分がグリシャをけしかける記憶を見ています。つまり、15歳エレンもまた記憶ツアー中の19歳エレンと同時に「父さんが始めた物語だろ」の下りを実質体験している訳です。

そのエレンとグリシャは連動し、つまり「父さんが始めた物語だろ」に反応し、レイス一家を殺す覚悟を決めて始祖の巨人を手に入れました。

グリシャは始祖の巨人をその身に宿した状態で「エルディアはこれで…本当に救われるのか!?」と叫び、それに呼応するように850年の15歳エレンは「この先どうすれば状況を変えられるのか」と考えていました。

そしてグリシャとエレンは「未来の記憶」を見ることになるわけですが、なぜそのようなことが起きるのでしょうか?

始祖の巨人と進撃の巨人

  • ジークが知りたいグリシャの過去
  • エレンが知りたいエルディアの未来

この2つはグリシャが見た「未来の記憶」の内容そのものであり、グリシャ本人にとっても重要な事柄でした。

グリシャが「未来の記憶」を見ることが出来るのは彼が「進撃の巨人」の継承者だからです。しかし何のきっかけもなければ、その力が使われることはなかったでしょう。そこにきっかけを与えて結びつけたのが「始祖の力」だと考えられます。

ジークが使った始祖の力

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

まず、グリシャが「エレン視点のグリシャの行動の記憶」を見ることができたのは、ジークが「グリシャの記憶」を見るために「始祖の力」を使ったからだと考えられます。

王家の血を引くジークが「始祖の力」を使ってグリシャの記憶を見るということは、座標に来るために接触する相手のエレンが始祖の巨人をその身に宿していなければならないことになり、そうなるとグリシャがフリーダから始祖を奪ったという過去が絶対にあったことでなければならなくなります。

だからグリシャは「始祖を奪うための記憶」として「エレン視点のグリシャの行動の記憶」を進撃の巨人の力で見ることになったのです。

エレンの中でグリシャの記憶が開く

©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻90話「壁の向こう側へ」

グリシャが「先の記憶(エレンが勲章授与式で見た未来の記憶)」を見ることができたのは、エレンがヒストリアと接触したときに「親父の記憶が開いた」からです(29巻115話「支え」)。王政編でエレンが王家の血筋であるロッドとヒストリアと触れたときと同じパターンです。

当時、どうにかして状況を変えたいと思っていたエレンは本人にその気がなくてもヒストリア接触するときに無意識で「未来の記憶」を見ようとした、つまり「グリシャの記憶」を見ようとしたのです。

一方、グリシャは始祖を奪って礼拝堂の外に出てきた時、「これでよかったのか!?」とエレンに問いました。自分がやったことがどのような未来に繋がるのか知りたがったのです。

このグリシャの欲求と、15歳エレンの「どうにかして状況を変えたい」という欲求は重なります。

ここでもしグリシャの中のエレンの記憶が解放されれば、グリシャとエレンの欲求が同時に満たされることになります。

そして実際にグリシャの中にある「エレンの記憶」の蓋が開き、グリシャは進撃の巨人の力で「エレンの先の記憶」を見て、それと連動して15歳のエレンはグリシャの記憶を通じて「自分の先の記憶(未来の記憶)」を見ました。

要はこのときエレンとグリシャの記憶の共有がより深まったということです(最終話でアルミンは「進撃の巨人の力で見た未来のためだってことは…わかるけどさ」と言っています)。

そもそも記憶ツアーはジークが始祖の力を使って始めたことですから、エレンとグリシャが影響し合ったことや未来の記憶を見たことはすべてジークが原因だったと言っても過言ではないのではないでしょうか。

「なぜすべてを見せてくれないんだ」

「なぜ…すべてを見せてくれないんだ」と言ってグリシャが見たがった「カルラの安否や壁が壊される日」といった記憶は、記憶ツアー中のエレンは見ていないものなのでグリシャも見られません。

エレンとジークはずっとグリシャに張り付いて追い掛けているのだから当然の話です。

また、勲章授与式でエレンが見た「未来の記憶(当時のエレンがまだ見ていない記憶)」にも「カルラの安否や壁が壊されること」は含まれていないので、やっぱりグリシャがこの記憶を見ることは叶いません。

「カルラの安否や壁が壊される日」は少年時代のエレンの記憶として存在しているはずです。しかし、これらの出来事は「この先どうすればいいか」と考えている勲章授与式当時の15歳のエレンにとってはもはやホットなトピックスではないのです。

「なぜすべてを見せてくれないんだ」というのはもっともらしい嘆きのように感じますが、そもそもこうなってしまった原因はグリシャが復権派の務めを躊躇って始祖奪還を先延ばしにして、ギリギリのタイミングになってしまったからでしょう。

また、グリシャはカルラが巨人に食われたことを避難所で少年エレンに教えてもらうまで知らなかったことがわかっています( 18巻71話「傍観者」)。だから、もし仮にエレンがグリシャに記憶を選んで強制的に見せることができたとしても、避難所でそれを知るより前に「カルラの安否がわかる記憶」をグリシャが見ることは絶対に不可能なのです。

つまり、エレンが意地悪をして制限をかけている訳ではないということです。

「エレンを止めてくれ」

グリシャはジークに「エレンを止めてくれ」と言っておきながら結局エレンに巨人を継承しますが、これは矛盾しているように感じます。

なぜならグリシャは未来は変えられないということを身を以て味わっており、エルディアを救うためにはエレンに巨人を継承するしかないと理解していたはずだからです。

しかしそれでもグリシャは抵抗せずにはいられないのだと思います。「私は人を救う医者だ」と同じです。純粋に親心というのもあるでしょう。だから最後の望みをジークに託したのではないでしょうか。

また、結局「地鳴らし」が止まらなければエレンがミカサに斬られて巨人の力が消滅することに繋がらない訳ですから、グリシャがジークに「エレンを止めてくれ」と頼むのは、結果的にはエレンの思惑通りとも言えます。

あるいは、グリシャがエレンとシンクロしているということを踏まえると、このセリフはエレンの本音が洩れたもの、と考えても良いのではないでしょうか。

ここはまだまだ議論の余地がある描写だと思います。

あの景色とは?

あの景色

©諫山創 講談社 進撃の巨人 33巻131話「地鳴らし」30巻121話「未来の記憶」

「あの景色」とはおそらく131話に登場する「地鳴らし」の光景です。

上空で両手を広げながら「この景色に」と言う前の少年エレンの恍惚の表情は、「あの景色を」と言った19歳エレンとシンクロしています。

グリシャが「あんな恐ろしいことになるとは」と言っているのは、少年エレンの「この景色」と同じページに描かれている「地鳴らし」の惨状だと考えられます。

131話ではエレンが泣きながらラムジーに謝る場面が「地鳴らし」の進行と交錯するように描かれていますので、エレンは「地鳴らし」の光景を未来の記憶で見ているはずです。

そして131話の最後に登場する首だけのエレンが目を瞑っていること、133話のエレンと始祖ユミルが座標で並び立つ描写、また始祖ユミルがラムジーが踏み潰されるところを見ていることから、始祖ユミルが見たものがエレンと共有されていると考えられます。

巨人が消滅する光景?

もう1つ候補を挙げるとすれば、最終話で巨人の力が消滅する瞬間でしょう。エレンはエルディア人が自由を手に入れた、というか次のステージに進んだことを喜んでいたという感じです。

しかし、なぜエレンが死んだ後の光景を見ることが出来たのかという疑問が生まれますが、以下のような解釈が可能だと思います。

ひとつは始祖ユミルの視点から地鳴らしを見たのと同じ仕組みです。

もうひとつは、1巻1話の「いってらっしゃい」の後から845のコマの前までは壁が描かれていないのですが、エレンはその光景を巨人が消えた証拠だと認識しているというものです。1話のあの場面は845年の出来事ではなく、エレンが事切れる直前に見た記憶だと考えられ、巨人を継承していない10歳のエレンでは未来の記憶を見られないのでは?という話は関係ないということになります。

「845」のコマの前後の謎。壁のない世界

この辺りは曖昧な描写しかないため、はっきりこうだと断言することは難しいと思います。

グリシャがジークに触っている…?

グリシャがジークに触っているということは、これは記憶なのではなくて実際にタイムトラベルしているのでは?と思うかもしれません。

答えは作者のみぞ知るということになると思いますが、そこまで神経質になる問題でもないような気もします。

グリシャは始祖をその身に宿している

エレンの記憶を通じて見えている、だけでも十分なような気はしますが、抱きついていることに対して説明が足りないと言われれば否定できないでしょう。

120話の髭面おじさんを認識したときと何が違うのかと言えば、グリシャ自身が始祖の巨人をその身に宿していることです。だからグリシャはジークのことを認識できるようになったのかもしれません。

グリシャ自身も始祖をその身に宿している影響で、ジークが始祖の力で作り出した記憶ツアーの舞台にうまく馴染むようになったとか、そんな感じなのではないでしょうか。

「そこにいるんだろ?」からの流れは、120話の経験を踏まえ「どうせ本体は見えないだろうけど」というつもりで言ったけど、いざ顔を上げたら今回は本当にジークが見えたからびっくりしたという演出だと思われます。

アニメ版

  • 礼拝堂地下の場面で、エレンはグリシャの肩に触れている
  • 終了間際、グリシャとジークが抱き合うとき、実際に触れている模様(服が触れ合う音がする)

ちなみに、最後の場面でなぜグリシャがジークを認識できたのかというと、間に挿し込まれる勲章授与式のエレンとヒストリアの接触がトリガーとなって、レイス一家惨殺以降の記憶を見たからでしょう。

原作

原作ではグリシャがエレンとジークと触れ合うような場面は、実際に触れているのかどうかわかりにくい描写になっています。

しかし、ジークやエレンは部屋のドアを開けたりしていますので、記憶の中に登場する物に触れている点ではアニメ版と同じです。

不思議現象は今回だけじゃない

大岩で穴を塞ぐ時のエレンとアルミンのやり取り(3巻13話〜4巻14話)ときや、懲罰房でエレンがクルーガーとシンクロして「始祖の巨人だ」(22巻88話)という場面など、121話以前から単なるイメージ映像以上の表現は登場しています。

グリシャがジークやエレンと触れ合っているような演出も、「本人同士がそう感じるのであればそういうことなのだろう」でいいんじゃないでしょうか。

たとえ触れ合っているからといって、あれが俗に言うタイムトラベルだとみなすことは出来ないでしょう。

また、記憶ツアー中のグリシャにはエレンの姿が見えておらず、ジークの姿はグリシャ以外には誰にも見えていないこともわかります。

結局、謎な部分は多いのです。

エレンはいつ「地鳴らしが止まること」を知った?

「エレンを止めてくれ&あの景色」の問題は複雑です。

記憶ツアー終了間際のエレンとグリシャは「地鳴らし」が止まることをまだ知らなかった可能性もあります。

どういうことなのかというと、エレンと始祖ユミルが接触したときに初めて、エレンの中で始祖ユミルを解放してあげようという発想が生まれ、その結果「地鳴らし」が止まることが決まったという流れです。

そうであれば、記憶ツアー中の最後にグリシャがジークに「エレンを止めてくれ」と頼むのは別におかしくないということになります。

そしてエレンが始祖ユミルと接触したタイミングでエレンとグリシャの記憶が同期され、エレンもグリシャも「地鳴らしが止まり巨人の力が消える未来」を知り、それならばと覚悟を決めたグリシャがエレンに巨人を継承した、という流れであれば違和感もなくなるのではないでしょうか。想像による補完が多いのでちょっと苦しいですが。

あるいは、新しい記憶を見たとか見ないとかではなく、エレンの認識の変化がそのままグリシャと同期されたと考えることも出来るでしょう。

エレンが見た「未来の記憶」が、勲章授与式で見たものがその全てであったとしても、最初はそれぞれの記憶がどのような意味を持つかわからなかったはずです。先に進むにつれて、一つひとつの記憶の意味を理解していったということなのであれば、エレンが始祖ユミルと接触したことは、先の記憶の理解を促した出来事であったと解釈できます。

例えば、「いってらっしゃい」の記憶を850年のエレン(15)が見ていたとしても、エレン自身が「いってらっしゃいの意味がわかるエレン」にならなければ、その記憶は意味を持ちません。特定の記憶を見るのと同じくらい、それをエレンがどう認識するかも重要なのです。

とはいえ、この辺りはどうしても想像による補完が必要になり、明確な回答を用意するのが難しい部分であることは否めません。

エレンがグリシャに記憶を見せていたのか?グリシャがエレンの記憶を見ていたのか?

結論を言うと、グリシャはエレンと共有する記憶を見られる範囲で見ていただけだと思います。

エレンが記憶を選別してグリシャに見せていた訳ではないはずです。自分が見たことがあるものをグリシャに見せて、かつグリシャが期待通りの行動をしたとしても結局何も変わらないのだから意味がありません。余計な行程を1つこなして振り出しに戻って来るだけです。

仮にエレンが記憶を送っていたとして見てみると、作中の描写と全然噛み合いません。グリシャはフリーダを殺すことになると事前に知っており、その上で躊躇していました。もしこれをエレンが選んで見せていたのであれば、記憶の選別によってグリシャの行動をコントロール出来ていないことになります。また、カルラの死がわかる記憶を見せないことがグリシャの行動を促したという理屈が通るのであれば、エレンは「フリーダを殺す記憶」をグリシャに見せず「『父さんが始めた物語だろ』の記憶」だけを見せていたはずでしょう。

そもそもグリシャが『「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる』と言っているのだから素直に信用するべきではないでしょうか。自由自在に見られると言っている訳ではないのだから何も間違っていません。

「見る側」がきちんと記憶を見られるということがはっきりすれば、つじつま合わせのための「記憶を見せる(送る)能力」は不要になり、様々な不思議現象の説明はついてしまいます。

なぜ過去の継承者に記憶を送る能力は存在しないのか

ジークが「記憶を見せた」というセリフ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

 

お前が… 父さんを… 壁の王や…世界と戦うように 仕向けた…のか?

「進撃の巨人」に…本当に時を超える能力があるのなら…

都合のいい記憶だけをグリシャに見せて過去に影響を与えることも可能なはず…

ジークのこのセリフと関連する描写を合わせて考えると、エレンが記憶を選別してグリシャに見せていたと感じてしまうかもしれません。グリシャも「なぜすべてを見せてくれないんだ」などと嘆いています。

しかし、エレンはジークのこの言葉に何も返事をしていませんし、クルーガーもグリシャも過去の継承者に記憶を見せたとわかる描写は一切ありません。

また、エレンやグリシャ他、特定のキャラクターが何かしらの記憶を見たときに、これは自分が能動的に見たのではなく誰かに見せられている と自覚していることがはっきりわかる描写もありません。

記憶は自分(道)の中にあり、それを自分が「見る」のです。外部から刺激があり、それがきっかけとなることはあるでしょう。しかし、最終的に記憶を見るのは自分です。

つまり、この作品の中に ダイレクトに記憶を見せる者は存在しない ということになります。進撃の巨人だろうが、始祖の巨人だろうが、誰かに記憶を「直接見せる」のは不可能なのです。

にも拘わらず、ジークが「記憶を見せる」という言葉を使うのは、どういうことなのでしょうか?

ジークのセリフ「都合のいい記憶〜」の意味

ジークが言う進撃の巨人の時を超える能力とは「未来の継承者の記憶を見ることができる」ことを指しています。

「都合のいい記憶だけをグリシャに見せて〜」の「見せる」は、「進撃の巨人には記憶を選択して見せる能力があり、それを使って記憶を見せる」という意味で言っているのではありません。

エレンとジークはグリシャの行動をずっと見ていましたが、どの場面の記憶を見るかを自分たちで選べるかのような雰囲気を醸し出しています。「次だ」「行くぞ」「次の記憶だ」とか言っているので、これは見るとかあれは見ないとか、やろうと思えばできるという感覚なのでしょう。

主導権はジークにあったはずなので、エレンはあくまでもジークに「次に行こう」と提案しているだけであり、実際に見る記憶を選んでいたのはジークだと思われます。

つまり自分たちの選択によって、後に(というか同時に)グリシャが見ることになる「エレン視点のグリシャの行動の記憶」が決定され、結果的にグリシャへの影響の与え方も決まる…ジークにはそういう実感があるということです。

記憶ツアー中のエレンの行動によってグリシャが見る記憶がどういうものになるのかが決まるのだから、それは実質エレンがグリシャに「記憶を選んで見せる」のと同じことになります。

そういう意味で、ジークは「都合のいい記憶だけをグリシャに見せて〜」という言い方をしているのです。

ただし、これは 「エレン視点のグリシャの行動の記憶」を グリシャが絶対に見るという前提があって初めて成立すること です。つまりジークがグリシャの記憶を見るために始めた記憶ツアー中に限定されるということになります。

なので、いわゆる「記憶を見せる」のが不可能であることに変わりありません。

エレンは勲章授与式で記憶ツアーの礼拝堂地下の記憶を見ています。だからグリシャが絶対にその記憶を見ることをわかっていました。そしてこのカラクリを巧みに利用してグリシャをけしかけたということになります。

そもそも記憶ツアーをやろうと言い出したのはジークです。

残念ながらジークが思ったような形ではエレンは洗脳されていませんでした。それはエレンがミカサを助けた場面ではっきりしています。

そこで切り上げれば良かったのですが、ジークはその先もグリシャの記憶を見続けることを選んでしまいました。

その結果、「都合のいい記憶」をグリシャに「見せる」ことになってしまったのです。

あんたのおかげで今の道がある

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

「あんたがオレを親父の記憶に連れ込んだおかげで今の道がある」というのはそういうことです。

「ジークがエレンの中にあるグリシャの記憶を覗きに行くこと」が「グリシャが始祖を奪還するために必要な未来の記憶を見ること」に繋がってしまうのです。

エレンがグリシャに何かを見せたから巨人を継承した?

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

ジークは、グリシャがエレンに巨人を継承したのはエレンがグリシャにもっと先にある何かを見せたからだと言ってますが、エレンからしてみればただ行動して進み続けただけです。自分が既に見た記憶を過去の自分やグリシャに送る理由はないし、そうしなければその記憶を見られなかったのだと考える理由もありません。

エレンが行動した結果をグリシャが「先の記憶として見た」という話であり、エレンが何かを見せる作業をした訳ではありません。エレンは自分の記憶をグリシャに見られている(グリシャがエレンの記憶を見ている)のです。

また、グリシャからすれば、自分がジークの姿を見たということは、未来のエレンが王家の血を引くジークと共に始祖の力を使ったのだと推測できます。

ジークはグリシャの間違いを証明しエレンの洗脳を解こうとしたばっかりに色々アシストしてしまっていたということです。

「なぜすべてを見せてくれないんだ」という言葉が出る状況

進撃の巨人のアニメのファイナルシーズンが75話で一旦終了となったとき、視聴者の多くは「なぜすべてを見せてくれないんだ」と思ったでしょう。

この場合、アニメを見るのはあくまでも視聴者自身であり、NHKや配信サイトが視聴者に見せている訳ではありません。視聴者自ら情報にアクセスして見ています。

見たいけど見られないとき、人は「なぜすべてを見せてくれないんだ」と言うのです。

それと同じように、グリシャもエレンの記憶を能動的に見たいのに見られないから「なぜすべてを見せてくれないんだ」と言った、ということになります。

ただ黙って待っていればエレンから記憶が送られてくるという認識ではなかったはずです。

その証拠に、いざ記憶を見た時は「見た」と言っています。「見せられた」とか「記憶が送られてきた」とは言っていません。

また、上でも書きましたが、「カルラの安否、壁が壊されること、壊される日」の記憶をグリシャが見られなかったのは、そのタイミングでグリシャが礼拝堂地下に行き、それにエレンとジークがついて行ったからというのと、またその後に見た先の記憶にもそのことが含まれていなかったからです。

エレンが見せる記憶を選んでいる?

グリシャが髭面おじさんジークに気づき、エレンが驚く

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻120話「刹那」

グリシャが髭面おじさんジークに気づいたとき、エレンは明らかに驚いています。つまり自分の記憶(未来の記憶)がグリシャに共有されていることを知らなかったのです。

記憶が共有されていることすら知らなかったのに、どうやって見せる記憶に制限をかける方法がわかるのでしょうか?

始祖を掌握した後に何もかもコントロールできるようになったから?

仮にそうだとすると、記憶を選別した結果は本編そのものということになります。ところがグリシャはフリーダを殺す記憶を見せられて躊躇っていますし、エレンもラムジーを助ける記憶を見せられて躊躇していました。

むしろ未来の記憶なんて見ないほうが良かったのではないでしょうか?記憶の選別が何のために行われているのかよくわかりません。

だったら、エレンは自分が見たものはグリシャも全て見る可能性があるとみなして、この仕組みを上手く活用したと解釈するほうが自然ではないでしょうか。

ここでエレンが出来るのは、自分が見るグリシャの記憶を選ぶことです。「見せる記憶」を選ぶのではなく、「見る記憶」を選んだのです。

だからエレンはジークが「エレンはジークが想像していたような形ではグリシャに洗脳されていない」と理解した後もグリシャの記憶を見続けて、レイス一家惨殺の場面まで引っ張ったのだと考えらます。

また、ジークはジークでエレンを救おうとしていました。グリシャの記憶を最後まで見ることで何かヒントを得られるかもしれないと思ってしまったか、あるいは、グリシャが自分を大切に想っていると知ったせいで記憶を見るのを止められなくなってしまったのかもしれません。

エレンはグリシャを操っているのか?

121話を読むと、グリシャがフリーダを殺した原因はエレンがけしかけたことである、と感じます。

しかし、本当に因果関係があるのかどうかはわかりません。

エレンは言うことを言っただけであり、グリシャはやることをやっただけで、この2つの出来事は実は全く関係ないということもあり得るのです。

グリシャにとってエレンの言葉は「判断材料」に過ぎず、最終的に決断して行動したのはグリシャ自身です。

確かに、エレンとグリシャは記憶を通じて繋がっており、一心同体みたいなものですから、全く無関係というのは無理があるでしょう。しかし記憶を通じてやり取りをしている以上、エレンがグリシャを完全に自分の思い通りにコントロールすることなど絶対に不可能なのです。

ソニー&ビーン殺害事件が起きて立体機動装置検査があったとき、アニが調査兵団入団を迷うコニーに「…あんたさぁ 人に死ねって言われたら 死ぬの?」と言っていました(5巻21話「開門」)。

グリシャがフリーダを殺したのはエレンにけしかけられたからだとみなすということは、「人は人に死ねと言われたら絶対に死ぬものだ」と言っているようなものなのです。それが「何だそりゃ」であることは明らかでしょう。

つまりグリシャが再びナイフを手に取った理由は、エレンにけしかけられた以上の何かが確実にあったということです。

相手を脅すミカサとエレン

©諫山創 講談社 進撃の巨人 8巻32話「慈悲」30巻121話「未来の記憶」

エレンがグリシャに囁く場面は、ストヘス区で女型の巨人と戦ったときのミカサとエレンを思い出させます。

このときエレンは、「うるせぇな オレは…やってるだろ!!」と逆ギレしていました。

グリシャも同じ気持ちだったかもしれません。

なぜエレンはグリシャをけしかけたのか?

ではなぜこのような場面が用意されているのかと言えば、その理由はエレンの個人的な感情・哲学的なところにあると考えられます。

すべてが最初から決まっていたとしてもすべてはオレが望んだこと

すべてが最初から決まっていたとしても すべてはオレが望んだこと

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻130話「人類の夜明け」

ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」に同じようなフレーズが登場します。

過去の人間を救い、すべての「そうだった」を「俺はそう望んだのだ」につくり変える

――そういうことこそ、はじめて救いと呼べるものなのだ!

©フリードリヒ・ニーチェ 光文社 ツァラトゥストラ(上)

進撃がニーチェっぽいというのは連載初期から言われていたことであり、そのようなイメージを持たれている人も少なくないと思います。

ニーチェ好きのスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」の第1章のタイトルは「人類の夜明け」であり、クライマックスに「ツァラトゥストラはかく語りき」がBGMとして使われています。

ということは、エレンの考えはツァラトゥストラに限りなく近いものであると想像できるでしょう。

130話のモノローグは地鳴らしが出発した後のものです。つまりエレンは始祖を掌握した後も尚「最初からすべてが決まっていたのでは?」と疑っており、過去も未来も変えられないと感じているということになります。これを事実と認めれば、エレンは不自由な存在であるということになってしまいます。ではどうすれば良いのかというと、「すべてはオレが望んだこと」にするしかありません。その場合、家族や仲間の死も自分が望んだから起きたということになりますが、それだけが唯一、エレンが「自分は自由である」と証明(主張)する方法なのです。

エレンがこのような葛藤を抱えていたのは、地鳴らしが発動されてからではなく、勲章授与式で未来の記憶を見たときからずっとです。ファルコに対して「進み続ける」と宣言したり、ミカサとアルミンに「オレは自由だ」「オレの自由意思の選択だ」とわざわざ言っていました。

そんなエレンが、「そういう未来だと決まっている」と言うグリシャを見たら、「いやいや、やりたくないけどそう決まっているから仕方なくやるみたいに言うなよ。お前が始めた物語だろ」と思うのではないでしょうか?

グリシャが決まっているからやったというのなら、エレンもまた決まっているから巨人を受け継いだということになってしまいます。それが気に食わないからエレンはグリシャをけしかけたのです。そしてその現場をジークが目撃することにより、エレンの自由が証明され、ジークの中で民族主義者のクソ親父というグリシャ像が崩壊し安楽死計画へのモチベーションもなくなるかも…ということになります。とはいえ、これすらも織り込み済みということになってしまうのですが、たとえそうだとしてもエレンは「オレが望んだこと」にするために、やらずにはいられないのです。

重要なのは、エレンは未来の記憶の通りにやらなければならないからやったとか、自分の望む未来のためにグリシャを操ったのでのではなく、結果的にそうなったということです。

エレンがグリシャに記憶を見せていたと証明するのは難しい?

もし記憶送信能力が存在するとした場合、様々な状況を想定してつじつまを合わせなくてはならなくなります。

  • いつ見せた?
  • どうやって見せた?
  • 見せるもの見せないものはどうやって選ぶ?
  • 見せる記憶を選んだとどうやってわかる?
  • 記憶送信は始祖の力なのか進撃の力なのか?

このような疑問に対して明確な答えを用意することは不可能でしょう。

記憶を見る側の都合

この作品の中で登場人物が記憶を見るのは、眠っているときなどの無意識状態、あるいはエレンの場合はヒストリアとの接触などのきっかけがあったときです。

本人にとってそれはコントロール不能で偶然に近い感覚だと思われます。

それを誰かが狙ってやったこと、必然なのだ、と感じるにはどうすれば良いのでしょうか?

自分が見た記憶と全く同じことが起きるという現象が何度もあった場合、グリシャは「エレンに記憶を見せられている」と感じるかもしれません。

しかし、それが起きているのは「直接記憶を見せる力」によるものなのか、「記憶を見るきっかけを与える力」によるものなのか、厳密に区別するのは不可能です。

なぜなら、記憶を見るのはどこまで行っても本人だからです。

もし見せるのが記憶ではなく、本人が知らない映像を見せるテレパシーのようなものであれば、見せられた側が「誰かに見せられた」と感じることはさほど不思議ではなく、そのような描写があっても読者は受け入れやすいはずです。

しかし記憶の場合、いくらエレンがグリシャに記憶を強制的に見せたと言い張ったところで、グリシャにしてみれば「自分の記憶を見た」ことに変わりはないので、「エレンに記憶を見せられたかどうか」はわからないということになってしまいます。

記憶を見せる・記憶送信能力とは?

そもそも「記憶送信能力」があるとすればどういうものなのでしょうか?

期待されるのは、エレンの都合の良いようにグリシャを操るために使えるものです。

たとえば、メール送信のようなものが考えられます。

この場合、送信するだけではダメで、受け取った相手がメールを開いて読むことで初めてコミュニケーションが成立します。なので「強制的にメールを開かせて読ませる能力」も絶対に必要になります。

相手に「特定の記憶」を送りつけて、かつ相手が「その記憶を絶対に見る」というところまで成立させる力。これが「記憶送信能力」の最低ラインです。

実際に行動まで操るとなると、記憶の選別がかなり重要になるのですが、そこは一旦置いておきます。なぜなら「お前が始めた物語だろ」がグリシャに突き刺さるというのは誰が見ても明らからだからです。

そうなってくると、期待される「記憶送信能力」には、最低でも「(きこえますか…あなたの心に直接呼びかけています)」のように強制的に相手が声を聞いてしまう現象を作り出す力が要求されます。要はテレパシーです。

始祖エレンのラジオ放送とか、ミカサやアルミンに会いに行ったあの現象はテレパシーに近いですが、あれは記憶のやり取りをしている訳ではないので、ほとんど参考になりません。

となると、どうしても記憶ツアー中のエレンとグリシャのやり取りを中心に見ることになります。

礼拝堂地下でのエレンとグリシャのやり取り

エレンが「立てよ父さん〜父さんが始めた物語だろ」とグリシャに言葉をかけて、実際にグリシャは巨人化してレイス一家を惨殺した訳ですから、エレンの意図は記憶を通じて伝わっているように見えます。

だったらやっぱりエレンは「記憶送信能力」を使ったのではないかと思うかもしれません。

しかしエレンに、進撃の巨人に記憶送信能力があると言うのであれば、その能力によってエレンが選別した記憶が送られ、かつグリシャは強制的にその記憶を見せられた、ということを証明しなければなりません。

作中の描写を拾って考える限り、これを証明するのは不可能に近いでしょう。

まず「エレンが記憶を送ったかどうか」を判別するのは不可能です。グリシャの反応がどうだとかいうのも想像でしかありません。

もし仮にエレンが記憶を送信していたとしても、その記憶を見るかどうかはグリシャ次第であるという状況も覆すことが出来ていません。「メールを強制的に開かせる能力」を示せていないからです。

これもグリシャが反応する絵がどのように描かれようと、エレンの使った力によってグリシャが強制的に記憶を見せられているとみなすことは出来ません。

何もかもあやふやなままです。

なぜグリシャはエレンの期待通りの行動をするのか

だったらグリシャは初めからすべて見ていたかもね、とするのが一番良い解決策なのではないでしょうか?

初めからというのは、ジークがエレンをグリシャの記憶に連れ込んだときです。すべてというのは、エレンが生まれて間もない頃から記憶ツアーが終わるまでです(始祖奪還後の先の記憶は除く)。

実際、エレンが勲章授与式で未来の記憶を見たときがそうなのですから、グリシャも同じパターンだとしても何ら不思議ではありませんし、むしろ同じであるべきでしょう。

エレンとしても「グリシャはこの先起こることを全て記憶を通じて見ている」という前提に立てるのでやることがシンプルになります。

グリシャはエレンに「立てよ父さん〜父さんが始めた物語だろ」と言われた記憶がずっと頭にあるわけで、いざそのときが来たら意識せざるを得ないでしょう。

ピンポイントで1回だけ見せられるよりも、むしろ長い間ずっと頭に残っているほうが遥かに効果的だと思います。

記憶送信能力がない場合の記憶のやり取り

記憶送信能力などない、としてエレンとグリシャの記憶のやり取りを考えてみます。

仮に記憶を保存する共有スペースがあるとして、まずエレンがそこに置きに行き、後でグリシャがそこに記憶を見に行くとしたら。

  • エレンが後々グリシャが見てくれると期待して共有スペースに記憶を置きに行く
  • グリシャが共有スペースに行き、エレンがグリシャに見て欲しい記憶を見て、エレンの期待通りの行動をする

というような流れになります。

記憶の共有がどのように行われているか作中の描写だけではよくわからないので、すべての記憶が強制的に共有されるとしたら。

  • エレンは後々グリシャが見てくれると期待して行動する
  • グリシャの条件が整い、エレンの記憶を見て(進撃の巨人の特性)、エレンの期待通りの行動をする

エレンはただ行動するだけで十分なので、記憶を置きに行くという作業は不要です。つまり特別何かの「能力」を使っている訳ではないということになります。

そして、能力を使うのは「見る側のグリシャ」だけで良くなります。原作の通りです。

結局エレンの意志が記憶を通じてグリシャに伝わっているのだから、実質「記憶送信能力」だと感じるかもしれません。

しかし、送信が成功したとみなすには結局受信も成功しなくてはならず、それはグリシャ次第なのですから、主導権はむしろグリシャにあるということになります。

なのでエレンがグリシャをコントロールしようと思ったら、グリシャが絶対にその記憶を見ると確信できるときを狙うしかありません。

それは果たして期待されている「記憶送信能力」の条件を満たしていると言えるのでしょうか?

おそらくそうではないでしょう。

結局、エレンが過去に影響を与えるには記憶ツアーのような形を取るしかなくなり、またそれを実現させるには「記憶送信能力」は必要ない、ということがわかります。

そもそも記憶ツアー中にエレンがグリシャをけしかけたのは、エレンが「グリシャは自分の記憶(未来の記憶)を見ている」と確信したからでしょう。

そして、その裏付けとしてグリシャのセリフ『「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる』があるのです。

さらに、「グリシャが未来のエレンの記憶を見る」という状況を生み出した記憶ツアーを始めたのは「(エレンの洗脳を解くために)グリシャの記憶を見たい」と思ったジークです。

記憶は見せられるのではなくて見るもの?

このような問題は始祖ユミルでさえ逃れることはできません。

ミカサは「頭の中を覗かれていた」と言っているだけですし、ミカサが見ているのは「自分の中の記憶」ないしは「自分で想像した何か」です。反応はしているけれど、記憶を見せられているかどうかはわからないし、多分何も見せられていません。

となると、やはりミカサ本人の意志とか積み重ねてきた経験・記憶が重要だということになってきます。

シビアすぎるかも知れませんが、記憶を見せるとか送るという力は「絶対にある」と言えない以上、「ない寄り」で考えるしかありません。

そういう視点で作中の描写を見てみると、ユミルの民が記憶を見る際、主体はあくまでも見る側にあり、自分の中に眠っている記憶が呼び覚まされて見る、という形になっていることがわかります。記憶の蓋が開いたとか言っているのはそういうことです。

たとえそれが他人のものだったとしても最終的に見る記憶は自分の中にあるのです。

影響を与えるとすれば、それは間接的なものになります。

それが行われたのが記憶ツアーだったということです。

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