なぜ「未来は変えられない」のか。決定論と自由意志
おそらく「進撃の巨人」は決定論的世界観です。
なぜ作者は「未来は変えられない」ということになる設定を選んだのでしょうか?
北欧神話の巫女の予言から取ったんだろ、で済ませられるのかもしれませんが、それとは別に何かあるのではと探りたくなります。
結論から言うと、「進撃の巨人」のテーマの1つが、「自由を求めること」だからだと考えられます。
「自由」を求めるエレンにとって最凶最悪の敵は「全てが初めから決まっていること」でしょう。つまり「究極の不自由」です。
「未来の記憶」は実は未来の自分が"自由"に選択した結果だった。しかしその未来の自分もまた「未来の記憶」に影響を受けて選択しているという、頭がおかしくなりそうな状況の中で、いかにしてエレンが進み続けるのか。
エレンが不自由であればあるほど自由を求める戦いは面白くなると思います。
決定論と自由意志
決定論と自由意志はしばしばセットで語られます。
全てが初めから決まっているのであれば、人間に自由意志はないことになる、みたいな話です。
なんだか素朴な感覚に反するので間違っているような気がしますが、必ずしもそうとは限りません。
決定論
決定論とは、哲学や物理学の難しい話は置いておいて、要は「初めから全てが予め決まっている」と世界を認識する考え方です。
素朴な感覚として、何から何まで決まっていると捉えるのは無理があると感じるのではないでしょうか。
しかし、ある程度狭い範囲で考えれば「決まっていること」は身の回りにゴロゴロ転がっています。
例えば、地球は約24時間で1回転し、約1年で太陽の周りを1周することは決まっています。
日本に住んでいる人間にとって、夏が最も暑くて冬が最も寒いことは確定事項です。
夏(冬)が近づくと事前にタンスの中の洋服を入れ替えるでしょう。これは確定した未来に操られていると言えます。
そして、人は最後に必ず死にます(いつか永遠の命を手に入れる人が現れるかもしれませんが、それはもはや我々がイメージするホモ・サピエンスとは別ものではないでしょうか)。
これらは太陽が死んだり、地球に隕石が衝突したりしない限りは、そう簡単に変わりません。
1人の人間が関与できるスケールを超えているので、実質「決まっていること」と見なしても良いでしょう。
つまり未来に縛られているエレンと同じです。
巨人の力の呪い≒エレンの運命
「進撃の巨人」の世界全体がそうだというよりも、とりあえず1話から最終話まで巨人の力が存在する限りは決定論的世界観が維持されると解釈するのが穏便だと思います。※
作中で「未来は変えられない」と認識しているとわかる人物は「未来の記憶」をまさに未来の記憶として認識しているエレンとグリシャだけなのですが、実際問題世界全体の動きは彼らが見た「未来の記憶」の通りになりました。
そしてその変えられない未来を作り出しているのはエレンがその身に宿す巨人の力であり、しかもそれは父から継承されたものでした。
つまり「巨人の力の呪い」を背負うことはエレンにとって運命(≒決定論)であり、運命を受け入れて向き合うことはすなわち巨人の力の呪いを消し去ることだった。
だからエレンが巨人の力によって「変えられない未来(しかもそれは自分が選んだ未来)」を見てしまうのも必然だったのではないでしょうか。
そして最終話でエレンは「巨人の力の呪い」から解放され「自由」になった…のかもしれません。
とはいえ、これだけでエレンがずっと「不自由」だと結論付けられる訳ではないでしょう。
自由というは色々定義がありますし、むしろこれだけわかりやすく不自由な環境を用意されているからこそ、自由とは何かを考える題材として適していると思います。
※決定論だと保証するのが巨人の力だから、それがない場合は何とも言えないという意味です。あの世界は巨人の力関係なく何もかも決まっていると言えそうですが、結果論にしかなりません(「決まっている」は登場人物の行動理由の説明には使えないということです)。
光の経路は予め決まっている。フェルマーの原理
「二点間を結ぶ光の経路は、その所要時間を最小にするものである」という有名な原理(フェルマーの原理)があります。
光は進む前から、どう進むかを知っている。つまり経路は予め決まっているということです。
これを「進撃の巨人」に当てはめると、
- a「始祖ユミルが巨人の力を手に入れる瞬間」
- b「始祖ユミル(エレン)が巨人の力から解放される瞬間」
a, b 2つの点の間を光(物語・エレン)が進むとしたら、経路(運命)は予め決まっていることになります。
「すべてが最初から決まっている(未来は変えられない)」というのも、何となく有り得そうな話に感じてくるのではないでしょうか。そこまではいかなくても、そういう解釈もありかな、ぐらいにはなると思います。
この考え方を前提にすると、重要なのは経路そのものであり、経路上のそれぞれの点(出来事)は、別の点(出来事)と比較して未来(前にある)とか過去(後ろにある)という情報は意味が無くなります。
なぜなら経路が最初から決まっているということは、点(出来事)が並ぶ「順番」もないことになるからです。
であれば過去と未来が同時に存在するのも当然、ということになります。
自由意志
進撃の巨人が連載されていた2009~2021年。科学の常識というか多数派の意見として「人間に自由意志は無い」と考えられています。
例えば、じゃんけんをするとき。意識が「〇〇を出そう」と認識するより前に、何を出すかは既に決まっているということがわかっています。
体(無意識)が勝手に反応した結果を時間差で意識が認識して、それを人間が「自分には自由意志がある」と勘違いしてるだけ、みたいな話です。
一方、「自由意志はある派」も存在します。
ただし、自由意志が働くのは反応が始まってからわずか0.2秒間だけであり、出来るのは「止める」ことだけだそうです。
例えば、「食べたいという衝動」に対して人間の自由意志が出来ることは「止める」しかないということです。
自由意志とは「止めること」と言い換えられるのかもしれません。
もう少し希望ある解釈をすれば、 人は「止めること」で何かを変えられるかもしれない みたいな感じになると思います。
意識と無意識
自由意志があるかどうかという話は、意識と無意識の話に繋がります。
原初的欲求に従って行動するエレンは無意識。
理性的な行動を取りたいアルミンは意識。
と当てはめてみたりすると面白いことが起きます。
エレンは「自由意志は無い派」でアルミンは「自由意志はある派」みたいになってしまいました。
自由を求めるということは「自由意志はあると主張すること」ではないのかもしれません。
自由意思
112話「無知」でエレンは「自由意思」という言葉を使っています。
一般的に free will は「自由“意志”」と書きますが、エレンは「自由“意思”」と言いました。
意志は「~したい」、意思は「考え」というニュアンスで使い分けられることが多いようです。
エレンは巨人の力に支配され何もかも操られているような感覚に陥りながら、「それでも自分は自由に考えて行動している」と主張したかったのかもしれません。
実際問題、「未来の記憶」を作っているのはエレン自身なので自由っちゃ自由です。
自由を巡る戦いの究極の形
- 100年続いた統治体制を止める 【壁内編】
- 憎しみの連鎖を止める(止めようとする) 【森抜け論】
- 2000年に渡って巨人の力で支配された世界を終わらせる 【結末】
なんとなく当たり前の習慣になっていて止められないものを止めようとする。
こう書くと特に珍しくも何ともない感じになってしまいますが、一応当てはまっています。
そしてこの究極が「未来が決まっている」ということです。
だから「進撃の巨人」の最後の戦いは、「未来を見たエレン」の「地鳴らし」を仲間たちが「止める」というものになったのでしょう。
自由を求めているのは誰
無意識の衝動に従い、不自由(決定論)を振り払いたいエレンと自由意志(意識)を主張するアルミンの戦い。
自由になりたい!決定論なんてあってたまるか!自由意志はあるんだ!意識にだってできることはある!
本当に自由を求めているのは誰なのでしょうか。カオスです。
まとめ1
©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻87話「境界線」
作者は究極の不自由とも言える「変えられない未来」を用意することで、エレンたちが自由を求めて戦う姿を鮮明に表現したかったのではないでしょうか。
より理不尽でより不条理なほうが、物語が悲劇的で面白くなるのは間違いないと思います。
決定論的世界観を示唆する描写
決定論的な世界を示す描写は複数登場しますが、反対に「俗に言うパラレルワールド」や「やり直しのループ」だと断定できる描写は一切ありません。
「私は本当に自分の意志で動いているの?」 68話「壁の王」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 17巻68話「壁の王」
「私は…本当に…自分の意志で動いているの?」
VSロッド巨人戦。ロッド・レイスの本体を斬り、ロッドの記憶を見た後のヒストリアのモノローグです。
決定論どうこうよりも、自由意志や無意識に関する描写です。
このときのヒストリアは半分自動的に体が動いてしまっています。
スポーツをやっている人ならわかるのではないでしょうか。練習を重ねると動作が自動化されてくるあれです。というかスポーツに限らず身体を使うあらゆる動作はそういうものでしょう。
ヒストリアには、自分を突き動かすのは自分の表層的な意識だけではないという自覚があると考えられます。
そしてそんな自分を受け入れて女王になる覚悟を決める、感動的な場面です。
「自分の意志」は本当にあるのでしょうか?
もし無いとしたら、すべてが最初から決まっていたとしてもおかしく無いということになります。
「ミカサやアルミン みんなを救いたいなら」 89話「会議」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻89話「会議」
「ミカサやアルミン みんなを救いたいなら 使命を全うしろ」
非常に豊富な情報を持つ驚異的な描写です。
この記憶はエレンがグリシャの記憶を通して見ています。
つまり「グリシャがクルーガーと会話している」この時点で既に「エレンがこの記憶を見る未来が決まっている」ということです。
なぜなら、クルーガーの「ミカサやアルミン」はエレンの影響を受けて発している言葉だからです。
832年にエレンの影響を受けて言葉を発するクルーガーと850年にその記憶を見ているエレンが同時に存在している、ということになります。
よって1巻1話から22巻89話までの出来事は「全て最初から決まっていた」ということになるのです。
- エレン、ミカサ、アルミンが生まれること
- 壁が破られエレンがグリシャから「進撃の巨人」と「始祖の巨人」を継承すること
- エレンが調査兵団に入って巨人の力に目覚めウォール・マリア奪還に成功して地下室に到達すること
- エレンとミカサが懲罰房に入れられること
- 会議中にエレンが「始祖の巨人の真価を発揮する方法」に気づくこと
- エレンがグリシャを通じて様々な記憶を見ること。そしてその記憶の中でエレンの影響を受けたクルーガーが「ミカサやアルミン〜」と言うこと
こうしたことが全て予め決まっていたということになります。
エレンがこの記憶を見た瞬間に過去が確定し、同時に クルーガーから見れば未来が確定したと解釈することも出来るでしょう。そのほうがこの作品で起きていることに則しているような気もします。
そして、これまでがそうだったのだからこの先もきっとそうだと予想できるでしょう。
もちろんこの段階では、先の展開はわかりません。以下のような可能性が残っていました。
- ミカサやアルミンが同名の別キャラかもしれない
- 後に実はループやパラレルワールド的世界観であることがわかり、この記憶がまるごと塗り替えられる
しかし、物語が完結して上の2つは否定されました。
クルーガーの記憶は決定論的世界観を裏付けるものだったということです。
様々な想像の余地を残しつつ、その一方で物語の核心に迫る決定的な事実を物語る、見事な1コマだと思います。
「そういう未来だと決まっている」 121話「未来の記憶」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
「…そういう未来だと決まっている」
グリシャがフリーダから始祖の巨人を奪うために巨人化しようとする場面です。
このときグリシャは「自由意志」で一旦巨人化を止めます。無意識に意識が抵抗し、決定論を覆そうと頑張ったのです。しかしダメでした。
無意識の象徴、本能の塊、進撃の巨人エレン・イェーガーの囁きによって、グリシャは導かれるようにナイフを手に突き刺して巨人化し、フリーダを食ってしまいます。
質問を無視するエレン
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
記憶ツアー終了後、ジークはエレンに色々質問しますが、エレンは無視したり微妙にズレた返答をします。
「お前が父さんを壁の王や世界と戦うように仕向けたのか?」 → 無視。
「『進撃の巨人』に本当に時を超える能力があるのなら都合のいい記憶だけをグリシャに見せて過去に影響を与えることも可能なはず」 → そのままジークが喋り続けて次の話題にいくのでうやむや。
「父さ…グリシャ~」 → 「感謝してるよ兄さん~」
エレンが確信犯で自発的にやったことなのか、それとも「頭がめちゃくちゃ」になって訳もわからずグリシャに発破をかけたのか、不明です。
何も言わないということはイエスではない、あるいは半々ということなのだと思います。
サブタイトル「未来の記憶」
そもそもサブタイトル「未来の記憶」というのが決定論的です。
なぜなら、未来が変わるのであれば「未来の記憶」なんてものは存在しないことになり、それは単なる「未来予想図」になってしまうからです。DREAMS COME TRUE です。
因果の矛盾?
「記憶ツアー中の始祖を有するエレンの影響でグリシャはフリーダから始祖を奪った」↔「グリシャがフリーダから始祖を奪ったからエレンが始祖を継承し記憶ツアーが成立した」
過去→未来の因果律に親しんでいると、矛盾しているように感じてしまいます。
しかし、この世の成り立ちは全て因果律だけで説明できるというのは勘違いというか、あくまでも一つの見方に過ぎません。
過去と未来を、つまり時間を同時的に認識するという世界観もあり、それは理論上は可能と考えられています。
同じような設定のSF作品に触れると、受け入れやすくなると思います。
ネタバレになってしまうので作品名を挙げることはしませんが、SF小説の名作と呼ばれているものを探れば出会うことになるはずです。
「すべてが最初から決まっていたとしても」 130話「人類の夜明け」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 32巻130話「人類の夜明け」
「すべてが最初から決まっていたとしても すべてはオレが望んだこと」
エレンがそう思っているだけ、と解釈できるかもしれませんが、実際問題この作品は「未来の記憶」の通りに展開している訳ですから決定論的世界観であることは否定できません。
このフレーズが仮定の形になっているのは、エレン自身が先のことがわからないからです。
エレンが先のことをわからないことと、この作品が決定論的世界観であることは矛盾しません。
「未来の記憶」を見たとしても、いざ実際にその場に立ち会わなければ、本人としても確信の持ちようがないでしょう。そしてそれは1つだけでは足りない、2つでも足りない。結局いつまで経っても「わからないまま」です。
とはいえ、「未来が決まっている」ということに対する確信は強まり、進み続けるしかないという覚悟がどんどん固まっていくことは確かでしょう。
そういう精神状態でエレンが1つ1つの選択を積み重ねているということは、必ずしもエレンは未来に縛られているとか選択の余地なしという訳ではないとも言えます。
それにこの作品が未来を変える物語なのであれば、わざわざこのようなフレーズを使う必要はなく、「悲惨な未来を変えてみせる!」的なものになるのではないでしょうか。
すべてはオレが望んだこと
「すべてはオレが望んだこと」という言葉の意味について、記憶ツアーや最終話のダイナ巨人の描写から、エレンが様々なことを意図的に操っているというような解釈があります。
しかしこれは逆のほうが自然でしょう。ストレートに望んだ結果になっていないからこそ自らが望んだことだと思うようにしているのです。そうじゃないとわざわざこのような言葉が出てくる意味がわかりません。
すべて望んだ通りになっているヤツが、歯を食いしばって「すべては計画通りだ」と言うのでしょうか?
130話のサブタイトル「人類の夜明け」は、「ツァラトゥストラはかく語りき」という曲が使われている映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)の第一章を意識してつけられていると考えられます(キューブリックはニーチェの思想に影響を受けており、しばしば永劫回帰や無限をイメージさせるモチーフや繰り返しの映像を作品内に登場させています)。
なぜなら、ニーチェの同名の著書に『すべての「そうだった」を「俺はそう望んだのだ」につくり変える。そういうことこそ、はじめて救いと呼べるものなのだ。』という言葉が登場するからです。これはエレンのモノローグと酷似しています。
エレンが自由を求めて進撃するというのは、過去が変わらなくても未来が決まっていても、つまり、すべてが最初から決まっていたとしても、 すべてはオレが望んだこと として、その運命を受け止めて進む、やりたいことをやるのだ、ということなのです。
グリシャからの巨人を継承することも、ダイナ巨人がカルラを食べることも既に決まっていることなのに、わざわざエレンが干渉した結果の出来事として扱われている理由はこれ以外に考えられないでしょう。
これがもし、巨人の力によって自由自在に過去を変えることが出来るという世界観だったとしたら、エレンの覚悟は非常に陳腐なものになってしまうのではないでしょうか?
「未来は…変わらないらしい」 131話「地鳴らし」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 33巻131話「地鳴らし」
「未来は… 変わらないらしい」
エレンもグリシャと同様に「決まっている未来」に抗う姿勢を見せましたが、結局変わりませんでした。
それを作者が丁寧に説明したのが、131話です。
エレンがラムジーを助けたのは、未来が決まっているからではなくてエレンがエレンだからです。そして、エレンが見た未来の記憶はエレンだからこそ起きる未来なのです。
「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」 最終話「あの丘の木に向かって」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻最終話「あの丘の木に向かって」
「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」
始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無く同時に存在するということは、その影響を受ける出来事、つまり巨人の力が存在する2000年間の全ての出来事もまた過去も未来も無く同時に存在しているということになります。
エレンが過去に干渉することも含めて全ての出来事は最初から決まっているのです。
そこには因果のループ(causal loop, bootstrap paradox)が発生する、あるいは、因果がなくなる、ということになります。
これを受けて130話のエレンは「どこからが始まりだろう?あそこか?いや…どこでもいい すべてが最初から決まっていたとしても すべてはオレが望んだこと」と言った(思った)のです。
最終話でエレンがアルミンにダイナ巨人がベルトルトをスルーしてカルラの元へ向かったのは自分のせいだというようなことを話しましたが、これは130話のモノローグと意味はほとんど同じということになります。
その他。記憶の断片など
120話、130話の「記憶の断片」に登場するコマは、一部を除けば全てそのまま作中に登場しました。
120話の「記憶の断片」には、エレンとジークの接触時点で明らかになっていなかった過去が含まれており、後に明かされたときには全て断片と同じように描かれました。
130話の「記憶の断片」には、エレンとヒストリアの接触時点から見て未来のものが多数を占めており、それらは実際に起きたことでした。
つまり「すべて最初から決まっていた」ということを意味しています。
ほんの一部、作画ミスと思われるものが混ざっていたり、メガネなしハンジが登場しなかったり、スクールカーストのものだったりします。これらは謎を残すためにわざと入れられているのかもしれません。
まとめ2
これらの描写を単発で見るのではなく、物語の結末も含めて総合して考えれば、「進撃の巨人」が決定論的世界観であることがわかると思います。
クルーガーの「ミカサやアルミン」はこの作品の世界がどうなっているかを示す象徴的な場面です。
エレンやグリシャが見た「未来の記憶」は結局変えられることはなく、その通りになりました。その時点で「未来は変えられない」ことがわかり、同時に「過去は変えられない」ということも確定します。
「進撃の巨人」の世界は一本道でやり直しは出来ません。こっちの世界線は悲惨だけどあっちの世界線は救われているからまあ良しとするかという話でもありません。
一本道の一発勝負だからこそ、一つひとつの選択に重みがあり、一人ひとりの命が尊いと感じられるのではないでしょうか。
紛らわしいかもしれない表現
「今の道」 121話「未来の記憶」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」
「あんたがオレを親父の記憶に連れ込んだおかげで今の道がある」
「今の道」という言い方が「別の道」の存在を示唆していると考えてしまうかもしれません。
そして「別の道がある」と解釈してしまうと、進撃の巨人は決定論的世界観ではないという発想に至り、いわゆるパラレルワールドとか別の世界線、〇〇ルートみたいなものを想定することになります。
そういった世界観に慣れ親しんでいる人が引っ張られてしまうのは無理もないでしょう。
しかし、「今の道」があることは「別の道」があることの証明にはなりません。
我々は現実世界でも「あの時あなたがチームに誘ってくれたおかげで今の私がある」みたいな表現を使うことがあります。
この場合、どう頑張っても「今の私」以外の「別の私」は存在しません。それと同じことです。
これまで散々挙げてきた決定論的世界観を示唆する描写が、「今の道がある」というたった1つの発言で覆るというのはさすがに無理があるでしょう。
もし作中の描写と矛盾しない形で「別の道」があるとすれば、丸ごと2000年分作り直したものということになるはずです。しかしエレンがその存在を認識できていると確実にわかる描写はありません。
別の道がある場合
もしエレンが神視点で「無限の道」を見ており、かつその中から好きな道を選べるとする場合、最終的に本編のあの結果になったことに対して説得力を持たせるのは非常に困難になります。
どうしても、許容範囲を超えるご都合感が出てしまうでしょう。
だからエレンが好きなように過去に干渉することができないようになっているのではないでしょうか。
「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」とは?
また、もし別の道があるのであれば、それこそ120話や130話に登場したような記憶の断片を使って「エレンが見ていた別な可能性」としてどこかしらのタイミングで描写があるはずです。
それが全く無いということは、少なくともエレンには別の道は見えていなかったのではないでしょうか。
「ベルトルトはまだ~」 最終話「あの丘の木に向かって」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻最終話「あの丘の木に向かって」
「あの日… あの時… ベルトルトはまだ 死ぬべきじゃなかった…」
このセリフが別の可能性を、つまりあの日あの時にベルトルトがダイナ巨人に食われて死んでしまう可能性を示唆していると考えてしまうかもしれません。
これも「今の道」と同じ話で、「ここでベルトルトが死んだルート」があることの証明にはなりません。本来はどうとでも取れるセリフです。
とある天才野球少年が後ろ髪を引かれる思いで地元を離れて強豪校に入って甲子園優勝。地元に進学した元チームメートが「お前は地元に残るべきじゃなかった」と言うのはごく自然な流れです。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 左:24巻96話「希望の扉」右:34巻最終話「あの丘の木に向かって」
衝撃告白の場面、アルミンはエレンが全てを話さずとも内容を理解し、驚愕の表情を浮かべました。
アルミンはエレンの発言を受けて「…え?」という言うのですが、これは96話「希望の扉」のベルトルトと重ねられています。
つまりアルミンはベルトルトを通じて既にこの場面の記憶を見ており、そこで何が起きたのかを察知する下地があった、ということなのでしょう。
まとめ
決まった結末に向かって進んで終わりなんて茶番だ…といった感想を持つ人も少なくないようです。
しかし、無限に選択肢があったら素晴らしい物語になるのでしょうか?
選択肢が増えれば触れるほど、人は何も決断できなくなるというのは素朴な感覚としてわかると思います。退路が断たれたときのほうが覚悟も決まるし強い気持ちでいられるでしょう。
そもそも、未来が決まっていることと、登場人物の「選択の重み」がどうのこうのというのは、直接関係ありません。
「運命に逆らうのだ」ではなく「運命を受け入れて、その上でより良く生きる」という価値観・発想をどう捉えるかという問題だと思います。
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