未来エレンが始祖の巨人の能力で過去干渉して全部操っていた説の矛盾

「始祖の巨人の能力が何でもあり過ぎる。チートだ。不要な設定だった…」「すべてエレンが仕組んだシナリオ通りだったなんて…とんだ茶番劇だ…」と感じてガッカリした人は気分が変わるかも知れません。

なぜなら、そのような能力も設定も存在しない上に、それを前提にすると本編の内容と噛み合わなくなるからです。あるのかないのかよくわからないものを信じてがっかりする必要はどこにもありません。

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エレンが始祖ユミルを説得して始祖の巨人の真価を発揮できる状態になったことを「始祖を掌握した」と巷では言われていたりします。

この始祖を掌握した未来のエレンが過去のダイナ巨人を操ったり様々な場面に介入していたという解釈があり、単行本レビュー、SNS、YouTube、掲示板、ブログ、質問投稿サイトなどを見る限り大多数がこれを受け入れているようです。

この解釈は、始祖の巨人の能力を使えば過去も未来も関係なく全ての巨人とユミルの民を自由自在に操ることができる、という仮説が土台になっています。

そんなことは作中に一切書かれていないにも拘わらず、なぜ信じられてしまうのでしょうか?

おそらく、そうじゃないとエレンが過去のダイナ巨人を操ったことの説明がつかないと思われているからでしょう。

実際にその通りになっているように見えるので間違っていないと感じるかもしれません。

しかし、この説は根本的な矛盾を抱えています。

タイムパラドックスがどうのこうのという話ではありません。どう頑張っても作中の描写とつじつまが合わないのです。

ダイナ巨人の誘導の原因を「始祖の巨人の能力」にすると生まれる矛盾

エレンが過去のダイナ巨人を操ることが出来た理由を「エレンが始祖を掌握することによって手に入れた、過去も未来も関係なく全ての巨人とユミルの民を操ることが出来る始祖の巨人の能力」にしているうちは絶対に作中の描写とつじつまが合いません。

これは「ありとあらゆる出来事にエレンが関与していた」と考える過激派も、「始祖の力で操っていたのはダイナ巨人だけ」と解釈する穏便派も、両方が避けて通れない問題です。

なぜなら、時系列を無視して任意のタイミングで干渉出来るという「反則的な始祖の能力」が存在することそれ自体が物語を破綻させるからです。

そもそも、この「反則的な始祖の能力」は「エレンが過去のダイナ巨人を操った」ということを説明するために勝手に想像されている能力であり、作中の描写からその存在を証明することは出来ません。

エレンのセリフは、「始祖の力がもたらす影響 には 過去も未来も無い…同時に存在する」です。「始祖の巨人の能力は過去も未来も関係ないのだ」とか「始祖の力は過去にも未来にも自由自在に影響を与えることが可能なのだ」ではありません。

にも拘わらず、「ありとあらゆる出来事にエレンが関与していた」という過激派の拠り所はどこまでいっても証明不可能な「反則的な始祖の能力」です。ミカサの特殊能力やループ説のような都市伝説の域を脱していないということになります。

過激派と同様に「始祖の能力で操っていたのはダイナ巨人だけ」という穏便派の拠り所もまた「始祖の反則的な能力」である以上、エレンがダイナ巨人以外にその力を使わなかったと証明することは不可能です。さらに厄介なことに、そもそもエレンがどうやってダイナ巨人を操ったのかということすら説明出来ていません。

いくらそれらしい描写を拾ってこじつけて調整しても、いくらエレンの心情に寄り添っても、無理なものは無理なのです。

ジーク主催「グリシャの記憶ツアー」が不要になってしまう?

始祖掌握のタイミング?

エレンが始祖の力で過去のダイナ巨人を操ったタイミングは「地鳴らし」が始まった後、つまり 始祖を掌握してから ……らしいです。

もしそれが本当なのであれば、エレンとジークがグリシャの記憶の中に入り込んだ記憶ツアー(記憶の旅、記憶巡り)の礼拝堂の下りは不要になります。なぜならグリシャも始祖の力で操れば済む話だからです。早速、物語がぶっ壊れてしまいました。

「いや、記憶ツアーの時点のエレンはまだ始祖を掌握していないからグリシャを操ることは出来ない」と思われるかも知れません。

しかしその理屈が通るのであれば、845年のダイナ巨人も同様に「当時10歳のエレンは始祖を掌握していないからダイナ巨人を操れない」ということになってしまいます。

「いやいや、だから記憶ツアーのときの始祖を掌握する前のエレンは記憶を通じてグリシャをけしかけた。そして始祖を掌握した後にダイナ巨人を操作したのだから矛盾はない」と思われるかも知れません。

しかし残念ながらこれもズレた指摘です。

始祖を掌握するより前だとか後だとかいう問題ではないのです。

始祖を掌握した未来エレンは2000年前から存在している

過去も未来も同時に存在するのですから、記憶ツアーの時点で始祖を掌握した未来エレンは既に存在しています。正確には始祖ユミルが巨人の力を手にした2000年前から存在している、ということになります。

別な言い方をすれば、一旦始祖を掌握してしまえば時系列無視で巨人を操れるのだからエレンがいつ始祖を掌握しようが関係ない、ということです。

いつでも好きなタイミングでエレンが過去に干渉できるということを踏まえて、記憶ツアーの礼拝堂地下でエレンがグリシャをけしかけたときの状況を考えてみます。

当時のエレンはグリシャに絶対に始祖を奪還してもらわなければなりませんでした。

そのような状況で、未来エレンが始祖の力を使わない理由はありません。力を使わないほうがおかしいでしょう。

ダイナ巨人は始祖の力で操るのに、なぜグリシャは始祖の力で操らないのでしょうか?

ダイナ巨人の誘導の理由を「始祖掌握」にしている以上は、いついかなる場面においてもエレンの行動が制限される根拠として、その時点ではまだ○○を知らないとか、始祖の力をまだ使えないという話を持ち出すことは出来ないのです。

にも拘わらず、記憶ツアー中は未来エレンの干渉らしきものは見られず、現在エレンが「父さんが始めた物語だろ」と言ってグリシャをけしかけました。

未来エレンが始祖の力を使える状況にありながら、なぜあんな回りくどい方法を使ったのでしょうか?

エレンは馬鹿なんでしょうか?それともグリシャに対して始祖の力を使えない絶対的な理由があるのでしょうか?ああ見えて実は始祖の力は使われていた?明確な回答が呈示されない限りは、誰も納得しないでしょう。

勝手に作った「始祖掌握設定」のせいで記憶ツアーの描写の説明まで苦しくなってしまいました。

つまり、エレンが過去のダイナ巨人を操ることが出来た理由として「始祖掌握」は相応しくないのです。

残念ながら、この時点で未来エレン介入説は完全にアウトです。

「過去も未来も関係なく全ての巨人やユミルの民を自由自在に操る能力」を物語の中に上手くなじませることが出来ません。根幹が揺らいでしまいました。

証拠がない上に作品内容と噛み合わない以上、始祖を掌握した未来エレンが自由自在に過去に介入することなど不可能、と結論づけるしかないのではないでしょうか。

これでもまだ、腑に落ちないというか、別に問題ないのでは?と思われるかもしれません。

必要ある?必要ない?

上のような屁理屈が展開された時、以下のような反論が思いつきます。

「記憶ツアーの礼拝堂地下の場面においては、エレンは始祖の力を使う必要はなかった。それだけのことだろう」

この反論を支える理屈によって、新たな疑問が生まれることになります。

では、なぜエレンは845年のダイナ巨人を操る必要があったのでしょうか?

アルミンに超大型巨人を継承させるため?少年エレンに巨人への憎しみを植え付けるため?

でも、エレンにとっては既に終わった過去ではないですか。なぜわざわざエレンがそこに関与する必要があるのでしょうか?

そういう物語だから?そういう過去だと決まっているから?

では、なぜそういう過去だと決まっている物語になっているのでしょうか?エレンは何のために始祖の力を使ったのでしょうか?

果たして、納得のいく答えはあるのでしょうか?

以降は、記憶ツアー以外の場面を使って始祖の巨人の能力について考えます。

自由自在に過去に干渉することが出来る能力の問題点

エレンは自由自在に過去に干渉することが出来る能力を持っている、という前提で考え始めるところに問題があります。

ダイナ巨人の誘導を 出来るからやった とするのであれば、なぜ他のところはやらなかったのか?という疑問が生まれます。当然の話です。

たとえばサシャやハンジ、フロックらが死んでしまったことはどう説明されるのでしょうか?

エレンの性格とか目的を元に理由を考えたところで永遠に答えは出ません。

なぜならエレンが仲間たちに幸せに長生きして欲しいと思っているのは明らかだからです。大切な仲間を見殺しにするに相応しい理由は絶対に見つかるはずがないでしょう。

「仲間の見殺し」に対して、歴史を調整しているとか、その通りにやるしかなかったという回答は、なぜ他のところはやらなかったのか?を封じ込めるための方便でしかありません。

なぜならエレンが自由自在に過去に干渉することが出来る能力を持っている以上は、その通りにやるしかなかった、という状況は絶対にあり得ないからです。

歴史を調整しているという考え方は、勝手に能力を作ったことによって生まれた矛盾を捻じ伏せるために勝手に作った方便で無理やり納得しているだけ、ということになります。

永遠に両立しない

その通りにやるしかなかった、が使えないとなると、すべてはエレンの気分次第ということになります。

そうすると前述の「なぜ他のところはやらなかったのか?」という話に戻ってきます。

エレンが任意で過去に干渉可能であることを絶対に否定出来ないこの状況で、サシャやハンジの死はどう解釈すれば良いのでしょうか?

同じところでぐるぐる廻って終わりのない問答が続いてしまうことになります。

エレンに自由自在に過去を変える力はないとすると?

エレンが自由自在に過去に干渉出来ないとすると、今度はダイナ巨人の誘導を説明出来なくなります。

なぜなら、始祖の力がサシャやハンジらを生き残らせることが出来ない不完全なものとするならば、ではなぜそれでダイナ巨人を操れるのか?という疑問に対する回答が別に必要になってしまうからです。

対処法としてたとえば始祖を掌握したエレンは頭がめちゃくちゃで偶然ダイナ巨人を誘導してしまっていた…だから自分のせいだと思っている、とすると今度は「ご都合」になり、わざわざ最終話で明かすほどのことでもなかっただろうと言われてしまいます。

兎にも角にもダイナ巨人の誘導をうまく説明出来なければ、何もかも矛盾だらけで物語が陳腐になってしまうのです。

始祖掌握を固定されて動かせないイベントとする

エレンが過去の巨人を操る能力を手に入れたのは始祖を掌握したタイミングなのだからそのイベントは絶対に外せない、ということにすれば何もかも本編で起きた通りにするしかなかったと自信を持って言えそうです。

自由自在にやれるのであれば他にやりようがあったのでは?という疑問を封じ込めるためには、そういうことにするしかありません。すべては始祖掌握のために、というスローガンを掲げてエレンは進み続けたのです。

しかし、それだとエレンが手に入れた能力は「過去未来関係なく自由自在に巨人やユミルの民を操る能力」という言い方が出来なくなります。なぜなら自由自在ではないからです。

あって欲しい能力の中身と、それを手に入れるまでのシナリオがうまく噛み合いません。なぜこうなるかというと、能力の中身を先に仮定して、その後に本編の内容と照合して都合良く条件を設定するのは筋が悪い考え方だからです。

それでも頑張ってエレンが何らかの能力を手に入れたとするならば、それは過去のダイナ巨人を操る能力ということになります。エレンはダイナ巨人を操る能力を手に入れたからダイナ巨人を操ることが出来たという、衝撃的な理論が完成してしまいました。

それは極端だろうと思われるかもしれませんが、起きたことを始祖の巨人の能力を持ち出して忠実に説明しようとするとそういうことになってしまいます。奇行種も操ったということにしたいのであれば、エレンの能力は「過去のダイナ巨人および各種奇行種を本編で描かれた通りに動かす能力」ということになるでしょう。

自分で穴を掘って自分でまた穴を埋めるような理屈です。しかもその穴は本編と一切関係ない場所に掘ってまた埋めて戻ってきているので何の意味もない穴ということになります。

これだったら始祖ユミルに操られているエレンがダイナ巨人を操ったのだという操りリレーのほうがまだ納得感があるように思われます。エレンの気持ちを考える必要がないのでシンプルです。なんだったらもう始祖ユミルがやったということにしてしまえば良いのではないでしょうか。

強制的なイベントを用意する

ではどうすれば良いのでしょうか?

エレンは過去に干渉してしまうこともあるが自由自在にできる訳ではない、ということをきちんと説明できれば良いのです。記憶ツアーはまさにそういうことでしょう。あれはエレンが自由自在に過去干渉出来る訳ではないことが明確に示されているからこそ名エピソードとして讃えられているのです。

物語の進行上エレンが絶対にやらざるを得なかった行動と過去への干渉が同時に発生するような出来事があれば良いということになります。ダイナ巨人の誘導以外にも同じようなことが過去にあれば尚理想的です。

そうすれば、ダイナ巨人を誘導したことも、サシャやハンジの死も、避けられなかったと言うことが出来るようになります。

そもそも原作にはそういうことがきちんと描かれています。

エレンが過去のダイナ巨人を操ったのは50話の座標発動のときだと考えられます。850年のあの接触の瞬間に845年のダイナ巨人はベルトルトを見逃してカルラの元へ向かい、5年後再びエレンの元へやってくることが決まったということです。

まさに「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」が展開されています。

「操った」というよりも「操ってしまっていた」あるいは「そういう過去が決定された」ということです。エレンが語っているのは「能力」ではなく、いわゆる「仕様」なのです。

「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」とは?

エレンがダイナ巨人を操りベルトルトを見逃してカルラの元へ向かわせた理由と方法

グリシャが見ていた「未来の記憶」 in 記憶ツアー

記憶を見せるのは進撃か始祖か誰でもないのか

言っていることは間違っていない。だいたい合っている

始祖の巨人の能力を使えば過去も未来も関係なく全ての巨人とユミルの民を自由自在に操ることができる、というのは実は完全に間違っているとは言えません。だいたい合っています。

ジークは始祖の力を使ってエレンをグリシャの記憶に連れ込みました。そのおかげで過去に干渉し、グリシャが始祖を奪還しエレンに継承されることになりました。

エレンは始祖の力を使ってダイナ巨人を殺しライナーやベルトルトを追い払いました。そのおかげで過去に干渉し、ダイナ巨人はベルトルトをスルーしてカルラの元へ向かい、5年後再びエレンの元にやってくることになりました。

確かに、始祖の巨人の力が使われたことで過去も未来も関係なく影響が及びダイナ巨人やグリシャが操られた、ということになっています。

ただし、イメージされるような自由自在に能力を使いこなしてどうのこうの、ではなかったということです。

また、始祖の力がもたらす影響の範囲は不明であることから、エレンが操っていたのでは?と思われている奇行種やら何やらも無関係だとは言えず、一番苦しいのは「エレンはダイナ巨人しか操っていない説」ということになります。

能力なんてあるの?

ややこしさの元凶は始祖の巨人の能力がどういうものかを中心に考えることにあるのではないでしょうか。

能力を先に設定し、その能力を使ってあれをやったのではないか?これをやったのでないか?と答え合わせをしようとするから、本編との噛み合わない箇所が生まれて頭を悩ませることになるのです。

この作品の中で描かれているのは、始祖の巨人の継承者がどのようなことを巻き起こしたのかという結果だけです。能力一覧のようなものは提示されていません。

エレンがやったこと、カール・フリッツがやったこと、確実にわかるのはそれだけです。しかもカールや昔の継承者がやったことは、回想でその瞬間が描かれている訳ではなく、誰かが口頭で説明しているだけです。

なぜ伝承という形になっているのでしょうか?それがこの物語の肝の1つなのではないかと思います。

だいたいこれで話は終わりですが、もう少し詳細に「未来エレン介入説」を考えてみます。

すべては未来エレンが仕組んでいた?エレンが歴史を調整した結果?

始祖を掌握して時系列無視であらゆる場面に干渉できるようになったエレンがこれまで歩んできた歴史になるように調整した、というような説明を数多く目にします。

  • エレンの介入も織り込み済みでこの世界は作られており、過去と未来が同時に存在しているからそれは可能なのである
  • 1話から最終話までのストーリーは予めエレンが干渉済みのものであり、それを我々読者は読んでいる
  • 過去のダイナ巨人の操作に干渉したことは調整のひとつであり、それによってエレンは自分で自分に「巨人への憎しみ」を植え付けた
  • ベルトルトは後のアルミンの超大型巨人継承など重要な出来事に関わっているため、エレンが調整して生かすことにした
  • その他、奇行種や人物の怪しい行動は全てエレンが操作していた

結果はその通りになっているので、言っていることは間違っていないような気がします。

しかしエレンは様々な「道」を無限に試せる訳です。「これしか道はなかった」は通用しません。

なのになぜあんな結末になってしまうのでしょうか?

全知全能のはずのエレンは死に、どうしてもやりたかった「地鳴らし」は止まり、どうしても守りたかった仲間の何人かは死んでしまいました。

もっと良い未来があったのではないでしょうか?なぜやり直さなかったのでしょうか?

また、すべてが最初から決まっていること、エレンが自由自在に過去に遡って色々試せること、相反するように見えるこの2つはどう折り合いをつければ良いのでしょうか?

納得する方法は?

さすがに全部エレンが操作していた訳じゃないのでは?と感じている人も少なくないようですが、それでも尚ダイナ巨人を操ったのは「始祖掌握」が理由であるという考えは根強いです。

「始祖掌握」を引っ張ったまま何とか納得しようとすると以下のような候補が挙がってきます。

  • エレンは神なのである
  • 操れるのは無垢の巨人だけ
  • エレンのお気持ちに最大限寄り添う
  • 歴史は決まっているのでその通りにやるしかなかった

エレンは神なのである

エレンは神であり、世界のバランスを取るために「地鳴らし」を発動したと思えば良いかもしれません。撹拌というやつです。

神なので些細なことは気にしません。あくまでも重要なのは世界のバランスです。

これはこれでありというか、好意的にネタとして受け止めて楽しんでいる人も多いでしょう。

行き過ぎたメタ要素や楽屋ノリ的なものが嫌いな人には耐えられないかもしれません。

操れるのは無垢の巨人だけ?

エレンは何でもかんでも操れた訳ではない。操れるのは無垢の巨人だけであり、知性巨人や人間状態のユミルの民の意思まで操ることは出来ないだろう。と思われるかも知れません。

ライナー「俺の巨人から鎧を剥がしたように… 始祖の巨人はすべての巨人やユミルの民を意のままに操ることができる…」

124話「氷塊」

アルミン「エレンは…すべての巨人とエルディア人に影響を与えることができる なのに僕らは変わりなく巨人の力を使えるままだ」

133話「罪人達」

未来エレン介入説の拠り所である証言が逆に仇となってしまいました。

残念ながら、始祖の巨人の力を使われてしまうと知性巨人だろうが人間状態のユミルの民だろうが問答無用で操られてしまうのです。

そもそも未来エレン介入説は基本的に始祖の力は「すべての巨人やユミルの民を操れる」という前々から作中で言われていることがベースになっており、問題は「過去も未来も関係なく」という部分です。

無垢の巨人のみ適用とか人間や知性巨人は無理なのでは?といったことはエレンの介入に制限を設けたいときだけに取り上げられることだったりします。…あべこべです。

実際、ライナーやアニの硬質化は始祖の力によって解除されてしまいました。知性巨人も操れることは間違いありません。控えめに言っても、何らかの影響を受けることは示されています。

これだけ材料が揃っている中で、記憶ツアー中のグリシャだけを「始祖を掌握したエレン」が手加減して特別扱いするのは無理があります。

アルミンたちには手加減していた?それはエレンが最終的に「地鳴らし」が止められても構わないと思っていたからでしょう。

しかしグリシャの場合は別です。始祖をなんとしても奪還してもらわなければなりませんでした。あの時点で本当に「始祖を掌握しているエレン」が存在するのであれば、始祖の力を使うというベストな選択をしない理由はないのです。それを上回るほどの、問答無料で始祖の力を使う訳にはいかない理由を示すことが出来るのでしょうか?

始祖の力を弱くするために、ライナーやアルミンの発言を厳し目にジャッジして、あれは自分の体験が伝聞と合致しているという経験則に過ぎない、と解釈することも出来るかも知れません。この理屈はエレン介入説を抜きにすれば至極まっとうなものに思えます。

しかしそう解釈した場合、逆にエレンが過去のダイナ巨人を操ることができた理由である「始祖の巨人の能力」の説明が苦しくなってしまいます。

エレンのお気持ち次第?

こうなってくると、すべてはエレンのお気持ち次第と捉えるしかなくなります。

エレンはミカサやアルミンら仲間たちが幸せに生きていける未来を望んだから彼等が生まれない世界はあり得ない。だから干渉したのは自分や仲間たちの誕生以後なのである。

この前提を元にすれば、ダイナ巨人の誘導によってカルラが死ぬのもやむを得ない。というような説明ができるかもしれません。

サシャやハンジの死は?

しかしサシャやハンジの死はどう説明するのでしょうか?

エレンは全ての歴史が見えているのですから、当然手助けできるはずです。

始祖の巨人は全ての巨人とユミルの民を操れるのですから、サシャやハンジが死なないように誘導すれば良かったのではないでしょうか?

ガビを操ったって良いし、地鳴らし巨人の進行を遅らせることだって出来ます。

2000年前から存在する「始祖を掌握した未来エレン」が常に見守っているのですから、いくらでやりようがあったはずです。

「地鳴らし」ですべてを平らにしたかったのは大いに結構なのですが、同時に大切な仲間に幸せに長生きして欲しいという欲求もあったのですから、これを両立させることは始祖の力をもってすれば簡単に実現できたはずでしょう。

エレンの中で仲間の命に優先順位があったとでも言うのでしょうか?

カルラのように敢えて殺したのですか?

エレンが生まれつきの変態だから仕方が無かったということなのでしょうか?

エレンはわからないと言っているけれど?

最終話でエレンは「みんなを…オレの大切な仲間を…生き残れるかどうかもわからないまま戦いに巻き込んだ」と言っています。

始祖を掌握しているエレンは過去から未来まですべての歴史を把握している全知全能の存在なのですから、「大切な仲間の生死がわからない」などあり得ないはずです。

どういうことなのでしょうか?

理論上は勲章授与式の時点で既に、というか2000年前の段階から、始祖を掌握している未来エレンは存在しているはずです。

もし、その未来エレンが現在エレンに記憶を見せて誘導していたとするのであれば、なぜわざわざ「現在エレンが大切な仲間の生死がわからない状態」に持っていく必要があるのでしょうか?

巨人を駆逐するにはこの道しかなく、現在エレンにその道を歩ませるために未来エレンが記憶を選んで送っていた、みたいなものは言うまでもなく問題外です。なぜなら無限に試せる以上は敢えて茨の道を歩ませる理由はどこにもないからです。

当然、巨人を駆逐するにはこの道しか無かったからやむを得ずサシャやハンジを見捨てたというのも通用しません。無限に試行錯誤できる未来エレンが意図的に845年のダイナ巨人を操ったということになっている以上、854年のサシャやハンジを意図的に見殺しにすることに明確な理由、必然性を見出すことは不可能なのです。

逆説的ですが、クソみたいな超が付くほど完全無欠のご都合結末になって初めて無限に試行錯誤できる設定は意味を持つと言えるでしょう。しかし進撃の巨人という作品はそうなっていません。

母を殺し、仲間を見殺しにする茨の道を意図的に歩ませるのが無限に試行錯誤できる未来エレンの意思だというのであれば、現在エレンと重なって意思が合致するのはいつなのでしょうか?

そんな瞬間は一生やってこないでしょう。なぜなら現在エレンは最後の最後まで仲間に死んで欲しくないと思っているからです。

「地鳴らし」の場合は、最終的に実行する未来エレンと、どうしてもやりたいけどやるのはダメだと思って葛藤している現在エレンが最終的に合致するからこそ、エレンは「地鳴らし」をすることになるのです。

始祖ユミルがエレンを操っている?

未来エレン介入説の根幹が揺らぐことになりますが、それでも何者かが現在エレンを操っているという前提を崩さないのであれば、すべてを操っていたのは始祖ユミルということになります。

「エレンは物語の奴隷だ、自由の奴隷だ」と言われたりもしていますので一定の納得感はあるかもしれません。

しかしそれだと最終話でダイナ巨人をカルラの元へ向かわせたのは明らかにエレンだと思わせるようなあの描写の意味がわからなくなりますし、「自分で自分の背中を押す」といった表現からわかるようにエレンはすべては自分の意思で選択したものとして行動している人物だということが強調されています。

どうも作中の描写と噛み合いません。

また始祖ユミルがエレンを操ることが出来るとしてしまうと、なぜ解放されるまでに2000年も掛かったんだという別の問題が生まれてしまいます。常識的に考えれば、そんなことは出来ないから本編のようなストーリーになったという結論になるはずです。

果たして、始祖を掌握した未来エレンがあれこれ過去に介入したり、現在エレンに記憶を選んで見せて操っているというのは夢物語だったのでしょうか?

それとも最終話のエレンはウソをつきまくっているということなのでしょうか?

しかし「未来の記憶」がある、つまり未来エレンは確かに存在しており、現在エレンは仲間の死を受け入れてひたすら進み続けるしかなかったという作中の描写は変えられません。

ということは、未来エレンはあくまでも現在エレンの延長でしかなく、たとえ始祖を掌握したとしても時を超えて何かを自由自在にコントロールする力など無いと考えるしかないのではないでしょうか。

そうじゃないとつじつまが合いません。

また最初に戻ってしまいますが、この大混乱を招いている原因は、始祖を掌握した未来エレンが過去のダイナ巨人を操ったという仮定です。

「エレンは歴史を調性している」の真相

大方の説明は、「エレンが歴史を調整して今の道になるように繋いだ」あるいは「歴史通りにやるしかなかった」という感じになるようですが、どうも腑に落ちません。

ダイナ巨人の操作のところだけがやけに雄弁で、それ以外の部分の説明は非常に曖昧な印象があります。

エレンを丸呑みした元復権派の巨人の行動や、ロッド巨人がオルブド区に向かったこと、始祖ユミルがジークを復活させたこと、その他の奇行種の行動に対する明確な説明を見たことがありません。そこに未来エレンが関与していなかったことにしても何も問題はないからでしょう。

説明を思いついたら説明すれば良いし、思いつかなければなかったことにすれば良いので、どうとでもこじつけられます。

この「エレンが歴史を調整していた」という言い方は、一見スケールの大きな話をしているよう見せかけて、実は「未来のエレンが過去のダイナ巨人を操作した」という たった1つの出来事の仕組みを説明しようと試みているに過ぎない のです。

過去のダイナ巨人の操作は始祖の力を使ってやっているに違いない。だからおそらく始祖の巨人の能力はこういうものになるはずだ。ただそれだけです。だから全体に適用させようとしたときに不具合が生じるのも当然と言えるでしょう。

始祖の力を強力なものとして解釈すればこれまでのエピソードが陳腐になるし、かといって始祖の力を弱めに解釈すると原作の描写と噛み合わなくなりダイナ巨人の操作の説明もつかなくなってしまいます。

あちらを立てればこちらが立たずです。

歴史調整説の欠陥。エレンがダイナ巨人を操る必要性を説明できない

歴史調整説の欠陥は、エレンがダイナ巨人を操る必要性をきちんと説明できないところです。

きちんと説明するとは、「もう既に起きたことなのだから、わざわざエレンが過去に介入する必要はないんじゃないですか?」という質問にダイレクトに答えるということです。

ダイレクトに答えるとは、「本編で描かれていること(本編の内容から絶対にわかること)」を使って説明するということです。

ダイナ巨人の件について、なぜ介入が必要だったのか?という質問に対して、「歴史を調整するため」という仮定を使ってしまうと、ダイレクトに答えていないということになります。

「歴史を調整するため」はそれ自体が仮定であり、「なぜ歴史を調整する必要があるの?」という謎を最初から抱えています。要するに構造上の欠陥を抱えているということです。

例えば、エレンがグリシャをけしかけたことについては、ジークが安楽死計画そっちのけでエレンの洗脳を解こうとして記憶ツアーを始めたから起きたことなので、もう既に起きたことだとしても必要なイベントだったと説明がつきます。歴史を調整するためだと言う必要がありません。ただしこれはあくまでも必要なイベントだと説明できているという話であり、記憶ツアー中の出来事の謎についてはまた別の問題です。

ダイナ巨人の件を「歴史を調整するため」という仮定で頑張ろうとすると、仮定地獄に陥ります。

「なぜ歴史を調整する必要があるの?」に対して「歴史通りにしなければならないから」という本編のどこにも書いていない仮定を用意し、さらにそれを説明するためにまた新たな仮定を積み重ねなければならなくなります。

後付けの仮定の説明のために、またさらに後付けの仮定を重ねることは、説明としての体を成していません。自ら「これは妄想です」「トンデモ考察です」と言っているのと同じです(それで別に構わないという考えもありますが)。

エレンが「過去介入能力(仮定)」を手に入れたのは「始祖を掌握したからである(仮定)」だから始祖を掌握できるように「歴史通りにしなければならない(仮定)」そのためにエレンは「過去介入能力を使ってダイナ巨人を操作した(仮定)」のである。

すべてが仮定で埋め尽くされて一周しています。このような説明が正当化される理由はありません。

その通りにやらなければタイム・パラドックスが生じてしまう的な説明、例えば、アルミンが超大型を継承できないしカルラの死によってエレンの巨人への憎しみが〜みたいな説明も同じ欠陥を抱えています。エレンがそうしなければならなかった理由になっていないのです。

色々記憶を見ていたら偶然にもダイナ巨人がベルトルトを食おうとしている場面に出くわして…ということなのであれば歴史を調整もクソもなく、エレンが起こした突発的な事故として処理されます。しかしこのような説明は誰も納得してくれないでしょう。なぜなら、エレンが色々記憶を見ていた場面などないからです。仮定の重ねがけになってしまいます。

「エレンが自分から操りに行った」というのもNGです。なぜそれをやらなければいけないとエレンが知っているの?という質問への答え方が相変わらず「歴史を調整…」ということになってしまうからです。じゃあ介入する必要があることを始祖ユミルに教えてもらった…等々、とにかく新しい仮定を作らなければならない状況を根本から変えないことにはどうにもなりません。

でもなんか惜しい気がするし、間違っていないような気がします。言い方を変えたり解釈をいじれば、仮定を減らすことができそうです。

決定論から逆算すると?

決定論である、つまり「全てが最初から決まっている」というのは結局何でそうなのかというところから考え始めたらどうなるでしょうか?

未来の記憶という設定があって、未来の記憶の通りに物語が進行して完結したということは、ほぼ疑いなく決定論であるとみなして良いでしょう。

しかし、決定論だから歴史を決まっている通りに調整しなければならないというのは、トートロジーというやつになってしまいます。「なぜ彼は結婚していないのだろうか?」という質問に対して、「なぜなら彼は独身だからだ」と答えるようなものです。

重要なのは、なぜエレンは歴史通りに調整しなければならないと知っているのか?あるいは、なぜエレンの心の中に決まっている通りにしようとするモチベーションが生まれるのか?という疑問に答えることです。

マーレに渡ってラムジーと会った辺りで、エレンは地鳴らしに踏み切る決意をしています。そしてその地鳴らしは未来の記憶で見たものなので、「その通りになるんだろう」という認識がエレンにあることは間違いないでしょう。

その上で、エレンが始祖を掌握した際に過去の出来事に介入する力を手に入れたのだとすれば、そのような歴史に持っていこうとするモチベーションがあったとしてもおかしくはない、と考えることはできます。自ずと、自分が歩んできたそれまでの道のりを無理をして変更する必要もないとみなすこともできます。

このように考えれば、「歴史を調整するため」という理屈は結果的に生まれてきたものであり、それありきで論理を展開している訳ではないと主張することも出来るでしょう。そして仮定地獄から消せます。消せるというか、地鳴らしのためとか始祖掌握のためと言い換えることが出来ます。

要するに、最初から「歴史を調整するため」なんて言わず、黙ってエレンの気持ちや置かれた状況を一生懸命考えれば良かったのです。

しかし、これは解決になっていません。まだ課題は残っています。「過去に介入する能力なんて本当にあるのか?」「なぜエレンはダイナ巨人を操らなければならないと知っていたのか?」という疑問に答えなければなりません。

結局、勝手に作った余計な仮定を1つ消し去っただけで、根本的な問題は形を変えず残ったままです。

「決定論だから」というのを盾にすると嫌がられるのはこういう事情があるからだと思います。本当の問題を覆い隠してしまうのです。

130話の記憶の断片がヒントなら?

原因やタイミングはどうあれ、エレンはダイナ視点のベルトルトの記憶を見ていることは確かです。これでエレンはダイナ巨人に操作する必要があると知ったのだ、とすることができるような気がします。

しかし、記憶を見たからと言って、それだけでエレンは「ダイナ巨人を操作しなくてはならない」と認識できるものなのでしょうか?

記憶ツアーのグリシャの件を経て、ダイナ巨人もまた同じことだとエレンが判断したと考えることもできそうですが、それは都合の良い発想です。順番は保証されていません。

エレンは介入しなければならないイベントがどれかなんて知らないはずです。エレンがその記憶を見てこれは介入すべき場面だと判断できる根拠が示されなければなりません。

上でも書きましたが、記憶ツアーはジークが始めたからストーリーとして自然に感じるのです。ダイナ巨人はエレンが積極的に操作しに行ったということになるから不自然に感じてしまう。要するに、エレンの前に強制的に立ちはだかる試練としてダイナ巨人の操作というイベントが現れなければならないということです。

始祖ユミルから強制的に介入リストを渡されてその中にダイナ巨人のベルトルト・スルーがあったとする場合、エレンのモチベーションとは関係ないということになってしまいます。

始祖ユミルがすべてを決めていたのでありエレンはそれに従って過去に介入した、と解釈するのであれば、始祖ユミルがまとめてやったということにすれば良いでしょう。あるのかどうかわからない「エレンが過去に介入した」という行程を挟む必要はありません。

そもそも始祖ユミルが介入しなければならない箇所を把握しているというのも仮定です。妄想の域を出ていません。

このように、うんざりするほど膨大な手続きを踏んでも尚、仮定が仮定のまま残ってしまいます。最後の最後のところで、作中の描写ときっちり繋げることが出来ないのです。

なぜこのようなことになるのかというと、スタートの時点で間違っていた以外にないでしょう。

未来エレンが過去のダイナ巨人を操ることが出来た理由として「始祖掌握」はやっぱり相応しくないのです。

本当に歴史を調整していたのなら

もしエレンがユミルの民の歴史すべてを俯瞰し作中で描かれたような状態に作り上げたのだとしたら、それこそ120話や130話に登場するような記憶の断片を最終話で見開きページに散りばめ、介入箇所がわかるように表現されていたのではないでしょうか。

それがダイナ巨人の誘導たったひとつの例を提示してあとはご想像にお任せします…で終わりだろうという解釈はあまりにもお粗末というか作者に失礼だと思います。

カルラの死と「駆逐してやる一匹残らず」&ベルトルト生存によるアルミンの超大型巨人継承

母カルラの死が巨人への憎しみに繋がったとか、アルミンがベルトルトを食って超大型巨人を継承するという話も、エレンが意図して仕組んでいたのであればすべて茶番ということになります。

なぜなら、エレンは自由自在に過去に干渉出来るので、わざわざ母親を殺してまでして少年エレンに憎しみを植え付けなくても巨人の駆逐など可能であり、アルミンが生き延びる方法などいくらでもあるからです。

目的達成のために必要ないことをして一人で勝手に怒り狂っているなんておかしいでしょう。

「少年エレン(10歳)は始祖を掌握している訳ではないし、まだ何も知らなかったから…」という言い訳が通用するのは、ダイナ巨人の誘導が未来エレンの意図したものではなかった、または絶対にそれしか方法がなかったと保証される場合に限られます。

エレンがダイナ巨人がカルラを食べたのは自分のせいだと思っている以上、それしか方法がなかったと示す必要があります。

しかし自由自在に過去に干渉出来る能力が作中に存在するという前提で話を進めているうちは、それしかなかったということを証明するのは永久に不可能です。

過去と未来が同時だとか、どっちが先かというのは問題ではありません。他に方法があるにも拘わらず意図してその道を選択して勝手に騒いでいることになってしまうのが問題なのです。

そもそも母カルラの死において重要なのは、本当は様々な要素が絡み合って起きたことなのに自分の責任として受け止めるところです。だからエレンが本当に0から選んだのでは意味がありません。巨人の継承も父グリシャに押し付けられたのではなく、自分で選んだということにするからこそ意味があるのです。

シガンシナ区の壁の破壊を任務ではなく英雄になりたいという自分のエゴのせいにしたライナーや、自ら父を殺し流されやすい自分も自分であるとして女王になることを決意したヒストリアと同じでしょう。

またアルミンがエレンの母殺しの告白を聞いたことは、巨人を継承するのは自分じゃなくてエルヴィンであるべきだったなどと思わなくなるためのきっかけとして重要です。それがもしエレンが0から選んでやっていたことなのであれば、アルミンは相変わらず巨人を押し付けられたと感じるままで、生き残るべきは自分じゃなかったという発想から抜け出せないでしょう。

時間がない他に道がない問題

エレンが仲間やパラディ島を救い巨人の問題に決着をつけようとしていました。しかし自分やジークの寿命、世界のエルディア人の認識、外交の道が断たれた後に侵略されるまでの猶予など様々な制限がありました。

つまり時間との戦いでもあった訳です。

この時間的制限は自ずと選択肢を狭めることになり、その結果、最も望ましいけど最も時間が掛かる作戦である他国との友好的な外交を諦めざるを得なくなりました。

こうした作中の描写と無制限で自由自在に過去に干渉出来る能力の食い合わせが最悪なのは火を見るより明らかです。

丁寧に丁寧に「地鳴らし」をせざるを得ない状況を作り上げたのに、なぜわざわざそれをぶち壊しにするような能力を用意しなければならないのでしょうか?

歴代始祖の巨人継承者が時を超える力を使った形跡がない

もし、始祖の巨人に過去や未来も関係なくすべての巨人やユミルの民を操ることが出来るという能力があるのならば、歴代の始祖の巨人継承者は一体何をやっていたんだということになります。

歴代壁の王、レイス家の一族は「不戦の契」によってその力を制限されていたとすればまだ良いかも知れません。

しかしそれ以前の大陸にいた頃の継承者はどうだったのでしょうか?

その形跡がわかるものがはっきりと描かれていない以上、自由自在に時を超えて過去や未来に影響を与える能力はないと考えるしかないでしょう。

もし仮に、昔の始祖継承者が過去や未来の巨人を操ったとしても、エレンに上書き可能だとしたらどうなるのでしょうか?

可能だとしても不可能だとしても、いずれにせよ「始祖の巨人の能力で過去や未来の巨人を操れる」というはウソだということになってしまいます。そのような矛盾した能力をエレンが手に入れたというのもおかしな話です。

進撃と始祖を継承し座標に到達した稀有な存在エレンだけが持ち得た…みたいなのは、もはや進撃や始祖の巨人の能力の説明とは言えません。無理をしてそれを進撃や始祖の能力とする必要もないでしょう。

結局のところ、未来エレン介入説で言われるような始祖の巨人の能力は「エレンが過去のダイナ巨人を操った」というただ一点を説明するためだけに勝手に想像されているものなのではないでしょうか。

始祖を掌握とは?

そもそも「始祖を掌握している」というのはどのような状態なのでしょうか?

ジークのセリフ「始祖の力は俺が手にした」「始祖の巨人の力は俺の手の中だ」や、アルミンの「エレンが始祖を掌握した!!」が元になっていると考えられます。

ジークの場合は素直に「始祖の力を使えるのは私です」という意味でしょう。

アルミンの場合は「地鳴らし」が始まったということは始祖の力を使うことが出来るようになったのはジークではなくエレンだと思った、それだけです。

エレン自身が完全に始祖の力を使いこなせるようになったと保証する描写はありません。50話のダイナ巨人との接触の件は、エレン本人は「あの時は… 訳わかんなくなっちまって…」と振り返っています。122話では完全に始祖ユミルに判断を委ねてしまっています。

エレンが「始祖を掌握したのかどうか」はちょっとよくわかりません。かなり怪しいです。

とはいえ、わからないと言っているだけでは話が進まないので、とりあえず実際に起きたことを確認してみましょう。

「壁の巨人の大行進」「全てのユミルの民への放送」「アルミン達が記憶を消される」といったことがありました。「すべての巨人やユミルの民を意のままに操ることができる」という作中の言い伝えからは外れていないように思われます。

もしこれらの出来事がエレンが始祖ユミルにお願いしてやったことなのであれば、エレンは始祖を掌握したということになるのかもしれません。かなり手続きが多くなってしまいましたが、「エレンは自分のやりたいことを実現するために始祖の力を使った」と言えないこともないでしょう。

しかし、それでも結局「過去のダイナ巨人をどうやって操作したのか」という問題は残ってしまいます。エレンが過去の巨人を操ることが出来ると解釈するには都合が悪い展開です。

未来エレン介入説はどのようにして「過去も未来も関係なく」の部分を補っているのでしょうか?

始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する

ここに最終話のエレンのセリフ「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」と次のページにある「エレンが過去のダイナ巨人を操ったと思われる描写」が絡んできます。

これが「始祖掌握」と結びつき、「始祖掌握とは過去も未来も関係なくすべての巨人やユミルの民に影響を与えることができる存在になること」とか「始祖を掌握すると過去も未来も同時に見える状態になる」のような感じで解釈されるようになったのでしょう。

始祖掌握とは、過去も未来も関係なくすべての巨人やユミルの民を操ることが可能とされる始祖の巨人の真価を発揮することができる状態、のようなイメージを持たれているのだと思います。

そして「始祖の巨人の能力とは、過去も未来も関係なくすべての巨人やユミルの民に影響を与えることができる」となって定着した、と考えられます。

完全に間違いだと言えないのが厄介なところですが、この解釈が矛盾を生み出す元凶であることはこれまでに書いてきた通りです。

エレンは「始祖の力がもたらす影響」には「過去も未来も無い…同時に存在する」と言っているのに、なぜか一番重要な「もたらす影響」の部分がすっ飛ばされてしまいました。まるで伝言ゲームの失敗例のようです。

「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」とは?

この伝言ゲーム状態を生んだ原因は、記憶ツアーのエレンの様子だと考えられます。

エレンがすべて操作しているという先入観

121話でエレンがグリシャをけしかけた場面の印象が強いせいか、未来エレン介入説は「エレンが何もかも操っている」という先入観に囚われ過ぎているように感じます。

グリシャやクルーガーを操っているのは未来のエレン、エレン自身を操っているのも未来のエレン。

だからダイナ巨人の誘導もエレンの意思だとみなし、始祖エレンが様々な場面に意図的に介入していたという解釈に傾いていってしまうのでしょう。

そしてその解釈を裏付けるために相応しい「エレンが使う能力」を生み出さなければならなくなります。

進撃の巨人の固有能力は記憶を送信すること?

グリシャは『「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる』と言いました。

ところが未来エレン介入説によれば、なんとこれはグリシャの勘違いだそうです。

本当の進撃の巨人の固有能力は「過去の継承者に対して自由自在に記憶を選択して送ること」であり、歴代継承者は最後の継承者であるエレンの思想に影響を受けて操られてしまう……らしいです。

なんだかんだで多くの人がこれに近いニュアンスで理解しているように感じられます。わからないでもないですが、これは拡大解釈でしょう。

作中からそれらしい描写をかき集めて強引に結びつけても、十分な根拠にはならないのです。

進撃の特性話はグリシャの勘違いである可能性は0ではありませんが、エレンもグリシャもクルーガーも「過去の継承者に記憶を送った」とわかる場面は、絶対にそうだと言える場面は一度もありません。

また、エレンはグリシャにもクルーガーにも影響を受けている描写がありますので、進撃の巨人の継承者はエレンに一方的に操られているというよりも、互いに影響し合っていると解釈するのが妥当だと思います。

記憶ツアーの描写を説明する上で「記憶送る能力」など一切必要ありません。

この状況を生み出した犯人は始祖の力を使ったジークであり、エレンは何か特別な「能力」を使っているわけではないのです。

記憶を送る者はいない

証拠がないにも拘わらず、なぜ「エレンが記憶を選んで見せることでグリシャを操った」という話になってしまうのでしょうか?

原因は「エレンが何もかも操っているという先入観」だと言えるでしょう。

エレンがグリシャを操っているということにするためには、エレンがすべての主導権を握るためのシステムを構築しなければならなくなるのです。

ところが、この進撃の巨人の記憶送信能力は「始祖を掌握した未来エレン」の存在がある以上、無意味になります。

上でも書いたように、記憶を送りつけるなどという回りくどいことをせずとも未来エレンはグリシャを操ることが出来るはずだからです。

記憶を送るのは実は始祖?

この不都合を解消するために、今度は「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」はエレンの勘違いであるとする必要が出てきました。

なぜなら、「時を超える進撃」と「全ての巨人を操り記憶を送ることができる始祖」のハイブリッドによって始祖完全体が出来た、そしてその完全なる力を駆使してエレンがこの世界の歴史を作り上げたというシナリオにしなければならないからです。

…混乱してきました。

未来エレン介入説によれば、本当は進撃+始祖で時を超える記憶送信能力を身に着けたということになっているのに、本編のエレンにそれを始祖単体の力だと認識されては困るのです。

なるほど確かに、進撃の巨人の固有能力が「未来の継承者が過去の継承者に任意の記憶を送る」であり、それに始祖の巨人の固有能力の「すべての巨人やユミルの民を操る」が合わされば、「過去も未来も関係なくすべての巨人やユミルの民に任意の記憶を送りつけて操ることが可能」ということになる……のでしょうか?

想像力は無限大ということなのかもしれませんが、グリシャもエレンもウソをつき過ぎのような気がしてしまいます。

…益々混乱してきました。

気を取り直してこれが本当の始祖の力だとすると、ダイナ巨人の誘導もグリシャの誘導も同じ原理であり、始祖を掌握したエレンがやったということになります。

しかしこれは再三言っているように、記憶ツアーの存在を無意味にします。

未来エレン介入説は、ダイナ巨人の誘導の理由を無理やり捻り出すために、記憶ツアーという作品中屈指の名エピソードの価値を下げてしまっているのです。

エレンが自由自在に使えるスーパーな能力の由来が進撃+始祖だろうが何だろうが、とにかくそれを使って過去のダイナ巨人を操ったということにする時点で、作中の描写とつじつまがあわなくなってしまいます。

未来エレンが現在エレンに記憶を選んで見せている?

未来エレンが現在エレンやグリシャを操るために見せる記憶を選んでいたという説があります(そもそも記憶を送る能力があるのか不明ですが)。

サシャやハンジが死ぬことや、カルラを殺したのが自分であることがわかる記憶を見せないことで、現在エレンが進み続けることを躊躇するのを防いでいたというような考え方です。

クルーガーが知性巨人の寿命が13年であることを隠し、復権派の戦意高揚を促してグリシャがジークやダイナに始祖を継承させようとする流れを作ったことと同じ理屈でしょう。

記憶が与える影響の確実性

しかし「未来の記憶」はエレンやグリシャが進み続ける上でアシストとして機能していたと言えるのか疑問が残ります。記憶は誰かを狙った未来へ導くために与える情報として効率性・確実性があまり期待出来ないのです。

グリシャはフリーダを殺すのを止めようとしているし、エレンもラムジーを助けるのを止めようとしていました。つまり、ただ記憶を見せるだけでは狙った行動をさせられるとは限らないのです。グリシャやエレンの行動の直接的な理由を、その記憶を見たから、とするのは少々無理があるように感じます。

グリシャがフリーダを殺した理由は、それがエルディアの未来のためになると信じていたからであり、記憶を通じて聞いたであろうエレンの言葉は最後ひと押しでしょう。また、エレンがラムジーを助けた理由は、放っておけないと思ったからでしょう。

逆に特定の記憶を見せなかった場合、果たしてどれほどの効果があるのでしょうか。

鉄道開通式の夜にエレンがイェレナから安楽死計画を聞かされた時点でパラディ島は詰んでおり、仲間が生き残るにしろ死ぬにしろレベリオ襲撃を仕掛けるしかなかったのは明らかです。

実際のところ決定的と言えそうなのは「巨人消滅」と「地鳴らし」ぐらいのものであり、どの記憶を見てどの記憶を見ないかというのは物語の進行上それほど大きな問題にはなりません。差し替え可能なパートがいくらでも存在するからです。

記憶を選んで見せる必要はあるの?

未来エレンが現在エレンに記憶を選んで見せていた、という設定を作り上げる手順は以下のような感じになると思われます。

未来エレン、つまり1人目のエレンがゴールまで辿り着いた。道中、色々大変だったので2人目が楽に進めるようにするために記憶を送った、ということにしよう。

いや、しかしこれだとやり直しループのような構造になってしまう。

進撃の巨人という作品は過去と未来が同時に存在するからすべて一発で決まったことであり、1人目2人目ということにならないようにしなければならない。

エレンはゴールに辿り着くまでの過程で未来の記憶を見ていた、そしてその記憶を選んで見せていたのもまた同じエレンである、ということにしよう。

しかしこの考え方でいくと記憶選定の基準は「ゴールするために必要な内容かどうか」ではなく「自分が見たかどうかでしかない」ということになります。

未来エレンがゴールした経験に基づいて記憶を選定したと言えなくなる、つまりそこに未来エレンの意志が介在する余地などないということになるのです。

要するに未来エレンは自分が見た記憶をそのまま過去の自分に見せているだけで、何もしていないのと一緒ということになります。

なぜなら、現在エレンが記憶に受ける影響が具体的にどのようなものかを明確に示すことは不可能であり、わかっているのはどの記憶を見てどのような出来事があったのかというまとまった結果だけだからです。

そもそも「未来の記憶」というのは現在エレンにとって結果を左右する判断材料になり得るものではありません。結果そのものであり、理論上は記憶を見ても見なくても起きることは変わらないはずです。とはいえこれはあくまでも理論上はそうだろうという仮定に過ぎません。

より厳格に考えれば、現在エレンがどの記憶を見てどの記憶を見ないかも含めたものが結果であり、現在エレンは未来の記憶を見なければゴールに辿り着くことは出来なかったはずだから未来の記憶は確実に現在エレンの行動に影響を与えている、ということは間違いないでしょう。

であれば尚更、現在エレンが見る記憶はとにかくゴールしたときと全く同じラインナップを用意しなければならない、つまり未来エレンが記憶を選ぶ必要性はどこにもないということになります。

記憶を選んで見せていたとしたら?

未来エレンが記憶を選んでいたと解釈するということは、進撃の巨人という作品を やり直しのループもの とみなすのと同義なのです。ただしこれは正しいとか間違っているとかの問題ではありません。そういうことになってしまうという話です。

これを決定論のままで踏ん張ろうとすると苦しくなります。

なぜなら、エレンがグリシャに見せるべき記憶を選択することが可能としてしまうと、結末が決まっているとか、エレンには未来を変えられない、という前提がなくなってしまうからです。

何周やってもダメで、結末が1つしかないことをエレンが悟って…みたいなことが描いてあるのであれば別に何も問題はないのですが、実際はそうではありません。ということは、やり直しを想定すれば結末は1つであることも約束できなくなります。つまり本編と噛み合いません。

逆に、本編の内容通りに結末を1つに固定するならば、自ずとエレンは記憶を選べないことになります。なぜなら、周回をせずにエレンがグリシャに見せるべき記憶がどれかを知る方法は絶対にないからです。始祖ユミルに教えてもらったとか、偶然知ったということにするならば、それはもはやグリシャが偶然記憶を見ているのと同じことになってしまいます。未来のエレンを介する必要がありません。

つまり、エレンが記憶を選んでいたとするのであれば、決定論的な解釈は成立しないということです。エレンが記憶を見せていて且つ決定論みたいな主張をするとダブルスタンダードになってしまいます。

よって、この作品が決定論的世界観であるとするならば、現在エレンが「未来の記憶」を見る仕掛けは、普通に記憶を見るときと同じように偶然だったとか、勲章授与式のときのエレンの心理状態が反映されたとか、それこそ始祖ユミルが誰かを待っていたから、という偶発的なものと認めなければなりません。

要するにエレンが見た未来の記憶は占い婆さんの不吉な予言と大して変わらないものなのです。

偶然あってこそ必然

この作品の肝の1つは、エレンの偶然に対するアプローチでしょう。

エレンにとって偶然起きたことを、つまりコントロール不能だったことを、後から「すべてはオレが望んだこと」と半ば強引に必然だったことにしている心の有り様こそが重要だという話です。

それがもし最初からすべてエレンが仕組んだことだったのであれば、せっかく提示されたエレンの心意気もすべてゴミになってしまいます。

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