「未来の記憶」考察。なぜ過去の継承者に記憶を送る能力(記憶を見せる能力)は存在しないのか。未来を知るグリシャ編

このページで説明したいことは、「エレンが好き勝手に記憶を選んで意図的に過去の継承者に見せて操るために使う能力」は存在しないということ、そしてそのような能力は存在しなくてもストーリーの進行上何も問題はないということです。

「記憶を送る能力」が存在すると仮定し、それを使って作中の描写と矛盾がないように説明しようとすると上手くいきません。実際は記憶を送るプロセスは不要だということがわかります。

原作でもアニメでも公式キャラ名鑑でも「進撃の巨人は歴代継承者の過去の記憶だけでなく未来の記憶を見ることがある」という意味の説明しかありません。自由自在に見られるわけではなくて時々見ることがある、それで十分だということです。

未来の記憶を見たのなら未来を知らなければならない

過去の継承者に記憶を送る能力があるのかないのか議論する上で欠かせない前提が以下の場面で提示されています。

「未来を知ることが可能なのだ」と “グリシャが思う” ために必要なこと

未来を知ることが可能なのだ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

 

「進撃の巨人」は未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる…

つまり未来を知ることが可能なのだ

グリシャは「未来を知ることが可能」と言いました。

つまりグリシャは なんらかの記憶を見た後にその通りの出来事が実際に起こり「自分が見たのは未来の記憶だったんだ!」と思った、という経験 をここに至るまでに何度かしているということです。たとえもしそれが本人の思い込みだったとしても、あるいは誰かにそう思わされているのだとしても、最終的に本人の実感としてそうだということを無視できません。

グリシャが未来を知る流れ

  • ①グリシャが記憶Aを見る
  • ②グリシャが記憶Aと同じ内容の出来事を体験をする
  • ③グリシャは自分が見た記憶Aは “未来の記憶” だったと知る

素朴に解釈すれば、 「“グリシャが” 未来の継承者であるエレンの記憶を見ていた」ということで話は終わりです。

これを「“エレンが” 記憶を選んでグリシャに見せて操っていた」という前提で説明しようとすると上手くいかないということを説明します。

グリシャが未来を知った3つの場面

レイス家礼拝堂地下洞窟に来て「未来を知ることが可能なのだ」と言う前、グリシャが「自分は未来を知った」と実感するのに相応しくわかりやすい場面は3つあります。

未来を知るという経験をするグリシャ

諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

 

グリシャは「自分が以前見たのは未来の記憶だった」と実感する。

リアルタイム通信が上手くいかない理由

グリシャが未来を知る流れを説明する際、エレンがその都度自分の見たものを記憶として随時グリシャに送っていた――リアルタイムで通信していた――というような考え方を使うと上手くいきません。

なぜなら「未来の人に見られている」では「未来を知る」にはならないからです。

リアルタイム通信だと、グリシャは「時々誰かが自分を見ている映像を見ることがある」と感じるだけです。グリシャにエレンとジークの会話の内容が聞こえているのであれば「未来の継承者の記憶」だと推測できるかもしれませんが、それだけでは「未来を知る」という経験をすることができません。

また、この考え方には別の不具合もあります。始祖を奪った後のグリシャがエレンの先の記憶(その時点のエレンにとって未経験の出来事の記憶)を見たことを説明できません。

グリシャが事前に見る記憶は「エレンの記憶」である

上で挙げた3つの場面とグリシャが未来を知るという体験、これらすべてを成立させるためには、グリシャはその出来事が実際に起こるより前に「エレンの記憶」を見ている必要があります。エレン側からすれば事前にグリシャに記憶を見られなければならないということです。

グリシャが見る「エレン視点のグリシャ」

諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

 

グリシャが赤枠内の映像を事前に記憶で見るということは、エレンの立ち位置(エレンの行動)も事前に決まることになる。要するにグリシャが記憶を見る以前からすべてが最初から決まっている

グリシャが見る「エレンの記憶」の中身は「エレンから見たグリシャ」なのだから、エレンは将来その記憶通りにグリシャを見る位置に立つことになります。逆にエレンが記憶通りに行動しないのであれば、そもそもグリシャはその「エレンの記憶」を見ることすらできません。

グリシャが事前に「エレンの記憶」を見るということは、グリシャは自分だけでなくエレンの未来の行動も事前に知るということです。たとえエレン本人はそれを自覚せず自分の思うがままに動いたつもりでも、結果的にグリシャが見た記憶の通りに動いたということになってしまいます。

この時点で「未来側が主導権を握っている」というような考え方や「エレンは好き勝手に記憶を選んで意図的に過去の継承者に見せて操っていた」というようなシナリオはあり得ないということがわかると思います。

記憶を選んで送っていたことにできない

記憶を選んで送る能力があるという仮定を正当化しようとするなら、エレンはその出来事が起こるより前に「自分の未来の記憶」を見ていてそれをグリシャに送っていた、ということにする必要があります。

しかしこの仮定はうまくいきません。記憶を送る工程が消えます。

エレンが見たらグリシャも見る

自力で「自分の未来の記憶」を手に入れる手段を持っていないエレンがそれを見る方法は「グリシャが見たエレンの記憶」を見ることです。※1. それしかありません。だからエレンは特定の記憶を見た時点でグリシャも確実にそれを見るということがわかってしまいます。

エレンは「自分の未来の記憶」を見るだけでグリシャが何を見るかは自動的に決まる(エレンは認識できてしまう)のだから、エレンが記憶を選択していたことにもできないし、送っていたことにもできません。

特に以下の3つの場面ではグリシャがエレンのいる方を見ているのだから、事前にそれを記憶で見たエレンはグリシャもその記憶を見ることが一発でわかってしまいます。

未来を知るという経験をするグリシャ

諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

※1. 121話「オレは親父の記憶から未来の自分の記憶を見た」

グリシャがエレンの記憶を見て未来を知るまでの流れ

  • ①エレンが「自分の未来の記憶」を見る。グリシャが見ることも確定 ← 記憶を送る工程は不要
  • ②グリシャとエレンが記憶通りの行動をする
  • ③グリシャは自分が見た記憶は未来の記憶だったと知る

グリシャがエレンの記憶を見るまでの一連の流れの中で、「“エレンが” グリシャに記憶を送る工程」は必要ないということになります。「記憶を送る」は消えるのです。

「エレンは自分にとって都合のいい未来にするために、記憶を選んでグリシャや他の歴代継承者に見せて操っていた」というようなシナリオは成立しないということです。

それでも尚「記憶を送った」とみなすことは、「そういうことにする」という以外に何の意味もないでしょう。

「始祖を掌握したエレン」は使えない

記憶の出所が不明なのが気持ち悪いからといって始祖を掌握したエレンが記憶を操作していたとみなすことはできません。

始祖を掌握したエレンとはそれまでの道のりを歩んできたエレンの延長にいる存在であり、そのエレンが既に体験し終わったことをそのまま再現するためだけにわざわざ過去に遡る意味がないからです。もし本当にそのようなことが行われているのであれば、作中で明確に描かれるべきでしょう。

また、記憶ツアー時のエレンは実は既に始祖の力を使えるのだと仮定しても状況は好転しません。なぜなら、エレンは事前に見た記憶の通りに動くしかないことに変わりないからです。エレンが主導権を握っているというシナリオにすることはできません。

かといって、エレンは自分の望む未来を事前に設定してその通りに動いていたと仮定したとしても、いつそれを設定したのか答えられず、結局、望まない結果があったからある時点まで遡って変えたという話になります。しかしその場合、「エレンは未来は変えられないものだと思っている」という作中の描写と矛盾するので成立しません。

記憶を見せる行為の無意味化

「記憶を見せる(送りつけて強制的に見せる)」という行為は、未来側が結果を知らなければ意味を持つことができますが、結果を知っていた場合は無意味になります。

立てよ父さん ~ 父さんが始めた物語だろ

父さんが始めた物語だろ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

原作でもアニメでもグリシャはエレンがセリフのすべてを言い終わる前にナイフに手を伸ばし始めていますので、その場でその瞬間に記憶を送ったと捉えるのは不自然です。

跪くグリシャ&すべてが最初から決まっていたとしてもすべてはオレが望んだこと

©諫山創 講談社 進撃の巨人 32巻130話「人類の夜明け」

シンプルに考えればここでもエレンが記憶を送るというプロセスは不要です。ただ単にエレンは事前に自分が見た記憶通りに煽り、グリシャは煽られる記憶を事前に見た上で躊躇したものの最終的に巨人化したということになります。

これを「記憶を見せる」という概念を用いて説明しようとするとつまずきます。

記憶は判断材料にしかならない

グリシャは「巨人化したグリシャがレイス一家を虐殺する」という記憶を事前に見ていながら躊躇したという事実がある以上、「記憶」はグリシャにとって判断材料でしかないという前提は崩せません。

最終的にグリシャはレイス一家を虐殺するということは読者やエレンにとっては既定路線ですが、グリシャ本人にとってはそうではありません。自分が見ているのが未来の記憶であり、その記憶の主がエレンであるとほとんど確信していたとしても、それが本当の未来かどうかは実際に起こるまではわからないということです。

「記憶を見せる」という行為は「意識を支配して行動を操る」よりもレベルが低いとみなさなければなりません。そうでなければ「記憶を見せる」の存在意義はなくなるからです。

結果を知れば無意味になる

結果を知らない場合(仮定)

仮に、エレンは「巨人化したグリシャがレイス一家を虐殺する」という結果を知らなかったとします。

その場合、「立てよ父さん」の記憶をグリシャに見せるエレンは、グリシャがその記憶を見たとしても巨人化するかしないかはわからないと思っていなければなりません。記憶はグリシャにとって判断材料でしかなく、結果を100%保証するものではないからです。

したがって、エレンは運任せのギャンブルをした結果たまたま上手くいったということになります。

結果を知っている場合(実際)

しかし実際のエレンは「巨人化したグリシャがレイス一家を虐殺する」という結果を知っています。知らないエレンは存在しません。

その場合、エレンにとってグリシャに記憶を見せる行為はその記憶の中身がなんであれただ単に必要だからやったということになります。本来結果を100%保証しないはずの行為が、その先の結果を知っているせいで先の結果に繋がることを100%保証してしまうということです。

エレンはグリシャがそれに反応して巨人化することを既に知った上で、自分が「立てよ父さん」と言う前に記憶を見せて、その後に自分は記憶通りに煽ったということになります。事前に記憶を送ったとわかるような絵的な表現もないのでおかしな話ですが、そういうことにするしかありません。

したがって、エレンが記憶を送る能力を使って「立てよ父さん」をグリシャに見せるという工程は、結果を知っているエレンがグリシャに記憶を見せて操ったという文脈で語る上では無意味で無駄ということになります。

意味の持たせ方の問題

それなら「記憶を見せる」というあってもなくても良い工程――しかも作中であると示唆されていない工程――を無理に想像して挿入する必要はなく、エレンは自分が煽ることを事前に知っていたということで済む話です。あとはどういう気持ちで煽ったのか、場面自体にどんな意味が込められているのかという話になります(130, 131話)。

「立てよ父さん」を見せる行為が無意味なら、「立てよ父さん」と言う行為も無意味です。しかし、全方位から見て最後まで完全に無意味だという訳ではありません。無意味だからこそ、エレンはそこに意味を与えることができるという話です。

確証バイアス疑惑

  • エレン「立てよ父さん~父さんが始めた物語だろ」
  • グリシャ「なぜすべてを見せてくれないんだ~」
  • ジーク「都合のいい記憶だけをグリシャに見せて~」

これらの場面やセリフだけから判断して「エレンはグリシャに記憶を見せることが可能らしい。ということはそういう能力があるのだ」と結論づける前に、「グリシャが未来を知る経験をしたという事実」ついて考慮しなければ何も始まりません。

多くの人が気にするのは「なぜグリシャは特定の記憶を見たり見なかったりしたのか?その仕組みはどうなっているのか?」ということだと思います。そして、その疑問を解消するためにエレンが自在に使える「記憶を送る能力」があるとみなす。

限られたいくつかの場面では何となくつじつまが合っているように感じられるかもしれません。しかし、ここまでの考察によって「エレンは能力を使って意図的に記憶を選んでグリシャに見せていたとは言えない」ことがわかっています。

他の場面と矛盾するのであればその仮説を正当化する理由はないということになります。

そもそも、誰かが何かの記憶を見たり見なかったりという一般的な現象について、その作品の中に明快でわかりやすい仕組みが存在しているとは限りません。不明なのであれば不明のままで何も問題はないのです。

なぜ…すべてを見せてくれないんだ…カルラの安否問題

「エレンは “能力を使って” カルラの死をグリシャに教えなかった」とは言えません。

母さんが巨人に食われた

©諫山創 講談社 進撃の巨人 18巻71話「傍観者」

グリシャがカルラの死を知るのは、始祖奪還後にウォール・ローゼ内の避難所にて10歳のエレンと話したときです。これはエレンも15歳のときにシャーディス教官から聞いて知った(思い出した)ことです(18巻71話「傍観者」)。したがって記憶ツアー中の19歳のエレンも当然知っていることになります。

記憶を見せる見せない以前に、エレンには最初から選択肢がなかったということです。

もし仮にエレンが記憶送信能力を持っていて、始祖奪還前のグリシャに「カルラの死がわかる記憶」を見せようとしても、まだ知るべき時ではないので神の見えざる手によって弾かれてしまうでしょう。

より合理的な答えを求めるならグリシャの立場になって考える必要があります。グリシャが自分の見た記憶を「未来の記憶」として「未来の予測」に使えるのは、その記憶が「エレン視点のグリシャ」である場合です。それならばグリシャはこれまでの経験からそれは確実に起こる未来なのだろうと予測できます。

しかしそうではないパターン、例えば「ダイナ巨人がカルラを食べる場面を見た少年エレンの記憶」では、それが未来の記憶なのか夢や幻覚なのか正確に判別することはできません。

つまりグリシャがカルラの死をより高い精度で予測するためには、「避難所にて10歳エレンがグリシャにカルラの死を告げる場面」を記憶ツアー中の19歳のエレンが目撃する必要があるということです。

まだ親父がオレに食われるところを見てないぞ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

しかしそれは叶いませんでした。記憶ツアーが途中で終わってしまったからです。エレンの「まだ親父がオレに食われる所を見てないぞ」というセリフは、グリシャの「なぜ…すべてを見せてくれないんだ~」に係っているということです。

もし記憶ツアーがグリシャが食われる所まで、というかグリシャがジークにエレンを止めてくれと頼んだ場面以降も続いていた場合、グリシャが少年エレンからカルラの死を告げられて驚く場面は自ずと存在しないことになります。1つの変更は必ず全体に波及し、ストーリーは根本的に違うものになってしまうということです。全ては固定されたセットであり未来と過去は密接に関わり互いを縛り付けているのだから、些細なものだと思われることでも実際はどれほどの違いを生むことになるのか誰にもわかりません。

偶然の余地を排除できない

エレンは能力を使ってグリシャに見せる記憶を選んでいたという仮説を正当化するには、偶然の余地を完全に排除する必要があります。

ミカサやアルミンみんなを救いたいなら使命を全うしろ

©諫山創 講談社 進撃の巨人 22巻89話「会議」

 

クルーガー「ミカサやアルミン みんなを救いたいなら使命を全うしろ」

しかし、これをエレンが意図的に記憶を見せてたとみなすのはさすがに無理があるでしょう。

なぜなら、この場面はグリシャがクルーガーから進撃の巨人を継承する直前のため、グリシャは記憶を失うはずだからです。何かしらの目的があるのであれば、わざわざ記憶を失うタイミングでそれをやる合理的な理由がありません。グリシャにミカサとアルミンの存在を知らせたいのであれば、壁内に侵入してエレンが生まれてからでも十分間に合います。

これが偶然ならば、グリシャは記憶ツアーが始まるより前に、つまりエレンが「記憶を選んで見せる能力」に目覚める前に、カルラの死の記憶を見る可能性があるということになり、エレンの記憶操作は偶然の余地を排除できていないことになってしまいます。

都合のいい記憶だけをグリシャに見せて~

ここまでの考察から、エレンが都合のいい記憶だけをグリシャに見せるという仮説は机上の空論だということがわかると思います。

とはいえ、実際問題エレンとジークの行動がグリシャが見ることになる未来の記憶の内容を左右していることは事実でしょう。そもそも『未来の記憶』はそういうエピソードです。ジークは推測しているだけでウソをついている訳ではありません。ただし彼のセリフは「記憶を送る能力の存在を保証するための説明」ではないということです。

途中経過はどうあれ、結果的にエレンはグリシャに未来の記憶を “見せた” ことになります。しかし、エレンはこれらの件に関して具体的なことには何も触れず、「感謝してるよ兄さん あんたがオレを親父の記憶に連れ込んだおかげで今の道がある」としか言いませんでした。

感謝してるよ兄さん

感謝してるよ兄さん

©諫山創 講談社 進撃の巨人 30巻121話「未来の記憶」

①ジークはひたすら推測を語る。②エレンは推測を否定(半分正解半分間違い)。③ジークは自分のせいだと気づいて驚愕の表情を浮かべる

ジークがエレンをグリシャの記憶に連れ込んだこと自体が原因となり、エレンとグリシャは互いの記憶を見ることになったということです。すべてがジークのせいという話ではなく、イェーガー父子3人の想いが交錯した結果こうなったとでも思っておくのが穏便なのではないでしょうか。

「ジークのおかげでエレンは能力の存在に気づき、それを使ってグリシャに記憶を見せることができた」というような解釈は実態に即していないということは散々説明してきた通りです。

未来の記憶とデジャヴ

構造上、エレンが記憶を選ぶことは不可能であり、記憶を送ったとみなす必要もないことがわかりました。

エレンがドンピシャのタイミングでグリシャに記憶を送り、グリシャがその瞬間に記憶を見て反応しているように見えるのは錯覚です。

実際は、120~121話で起きた様々な出来事について、グリシャは既にそれを記憶として持っていて――未来の記憶とはグリシャにとって最初から存在していて自分が見る可能性のある記憶であり、デジャヴのようにいざその場に立ち会った時にそれを思い出している――反応しているということです。

「記憶を見る/思い出す」とは

全編を通して、登場人物たちは物語を展開させる上で都合の良い内容の記憶を都合の良いタイミングで見ていますが、それを「ご都合」だと批判する意見は見たことがありません。記憶を見る/思い出すという現象はあくまでも比喩、心の動きを表現するメタファー/アレゴリーであるということが、当たり前に受け入れられているからでしょう。

知性巨人は先代継承者の記憶を見ることがありますが、自由自在に見られるわけではなく、現実世界の人間が夢や白昼夢を見るのとさして変わらないような描かれ方をしています。進撃の巨人の未来の継承者の記憶であってもそれは変わらないはずです。実際問題、明確な違いを示す証拠は見つかりませんし、違わなければならない理由はありません。

まとめ

「進撃の巨人は歴代継承者の過去の記憶だけでなく未来の記憶を見ることがある。それ以上でもそれ以下でもない」ということです。

これを踏まえた上で、「未来の記憶」については仕組みや理由ではなく、あの一連の表現の意味を考えることが面白いということになるのではないでしょうか。

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