845について考察。壁のない世界
最終話(139話)までのネタバレを含みます。
845のコマより前の部分は 壁がない ので最終回に繋がる場面かもしれませんね、という考察です。
「845は年号」ということが前提になっています。
845が年号なら0年には何が起きた、何を基準に845年なのか、845が「年号ではない何か」だとしたら何を表す数字なのか、という話には触れていません。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 1巻1話「二千年後の君へ」
この場面、「いってらっしゃい」「やけに目立つ木」「木に刻まれた十字架」など話題に事欠かないのですが、それは一旦置いておいて 壁がない というところが非常に気になります。
「壁がない」というか、「壁が描かれていない」あるいは「壁が見えないように描かれている」という感じです。何かトリックが隠されているような気がします。
では、何のためにそのような描写になっているのでしょうか?それは何を意味しているのでしょうか?
訓練兵団入団以降、地鳴らし発動後ならまだしも、子供時代のエレンの生活圏内で壁が見えない場所はないはずです。この場面は薪を拾いに行っているだけなので、シガンシナ区の自宅からそこまで遠くに行っているとも思えません。
ということは、ここで描かれている世界は、我々がずっと追い掛けてきた世界と違うものだと考えられるのではないでしょうか?
つまりエレンが目指しているであろう、巨人がいない世界(壁がない世界)ってこのことなんじゃないでしょうか。
目次
数字のコマの意味と使われ方
進撃の巨人には年号らしき数字のコマが4回登場します。
- 845 1巻第1話「二千年前の君から」
- 850 1巻第2話「その日」
- 844 2巻第5話「絶望の中で鈍く光る」
- 847 4巻第15話「個々」
話の流れとセリフから年号のことを指しているのはほぼ間違いないでしょう。アニメではナレーションが「845年」とはっきり言っています。
これら数字のコマの共通点は、そのコマの後に、該当年の出来事が描かれていることです。
数字のコマの前は、その年より前(過去)だったり、後(未来)だったりします。
場面転換の役割を果たしている訳です。まあ、普通ですよね。
※ちなみに、作中では「今は〇〇○年だ」というセリフや表現が1度も出てきません。「何年前」としか言われていないのです。アニメでもナレーションでしか言われていません。何か狙いがあるのかないのか、非常に気になるところではあります。
第2話 850の前後
©諫山創 講談社 進撃の巨人 1巻2話「あの日」
第2話の850の前は、エレンが避難する船の甲板から巨人を眺めながら涙を流し「駆逐してやる!!この世から…一匹…残らず!!」という有名なセリフを言うシーンです。
そして、850のコマが挿し込まれて舞台は現在へ。訓練兵の卒業式的な場面に転換します。読者はそれまで描かれた845(年)から5年後の舞台が変わったんだな、と理解するでしょう。
第5話 844の前後
©諫山創 講談社 進撃の巨人 2巻5話「絶望の中で鈍く光る」
第5話の844のコマの前は、トロスト区攻防戦でミカサが避難する住民を助けるシーン。巨人を倒し、門を塞ぐリーブス会長を一喝して無事問題解決。幼いルイーゼと母にお礼を言われます。
そして、頭痛が始まり過去の回想へ。その過去は844(年)で、ミカサは両親が殺された後、自身は誘拐され、助けに来たエレンと共に強盗と戦う際にアッカーマンの力が目覚める…というエピソードへ続いていきます。
第15話 847の前後
©諫山創 講談社 進撃の巨人 4巻15話「個々」
847だけは15話のド頭なので、前のコマはありません。14話はエレンが超大型に開けられた穴を岩で塞いだところで終わります。
15話は回想から始まっていると読むことが出来るでしょう。
847(年)は開拓時代。農作業中のアルミンは奪還作戦と称した口減らし作戦によって両親を失ったことを嘆き、威張り散らす憲兵団に対して「今に…見てろ」と呟きます。彼が穏やかならぬ気持ちを持っていることが伺えるシーンです。
そして第1話 845
©諫山創 講談社 進撃の巨人 第1話「二千年後の君へ」
- 赤: 壁なし。845年ではない世界。または記憶?
- 青: 壁あり。845年以降の世界。
- 緑: エレンまたは他の継承者が見た記憶
第1話の845の前は、かの有名な「いってらっしゃい エレン」の下りです。
エレンとミカサが一通り会話した後、泣いていることを指摘されたエレンが「え…!?」と言って、845。
場面が変わって、ドーンと壁が現れます。
845のコマの使われ方が他の数字のコマと同じならば、
- 845のコマより後 → 845年 の出来事
- 845のコマより前 → 845ではない年
ということになるはずです。
しかし、その後の数ページを読み進めても特に場面転換は起きていないかのように感じます。
つまり、本当は845の前後で別々の場面を描いているにも拘わらず、読者が同じ場面が続いているように錯覚させる狙いがある、ということなのではないでしょうか?
845の前には壁がない。845の後には壁がある
©諫山創 講談社 進撃の巨人 第1話「二千年後の君へ」
「845の前」は壁がありません(壁があるのかどうかはっきりわからない)。
壁が見えそうで見えない微妙なアングルなのでなんとも言えませんが、少なくとも壁が描かれていないことは確かです。
ミカサが「どうして泣いてるの?」と言っているときの2人の立ち位置と、845の直後のコマの立ち位置が同じならば、木の葉が舞うミカサの背景には壁が映り込んでいるはずです。
しかし、背景は空白です。
キャラクターを強調するためにあえて背景を消している可能性もありますが、果たしてどうなのでしょうか。
120話の記憶の断片と比較
©諫山創 講談社 進撃の巨人 左・第1話「二千年後の君へ」 右・第120話「刹那」
120話「刹那」では、ガビに首を吹き飛ばされたエレンがジークと接触した直後から、座標に到達するまでの間にエレンの記憶の断片が挿し込まれます。
この1つ1つの断片はエレンにとって印象深い記憶の集まりだと考えられますので、ここに登場したものは重要度が高いと判断して良いでしょう。
その中に第1話のミカサのシーンとそっくりなものがありますが、背景に壁が描き込まれています。
1話の背景に壁がないのは手抜きなの?
ということは、1話に背景がないのはやはり単なる手抜きや簡略化なのでしょうか??
もし作者が全く同じシーンを描いてるのであれば、手抜きなのかもしれません。あるいは連載初期なので背景を細かく描く余裕がなかったか。マンガは全てのコマに背景が描かれる訳ではないのでそれほど不自然ではないと捉えることも出来ます。
しかし、もし作者が「壁のない世界」を想定しているのであればこれはそれぞれ別なシーンだということになります。つまりきちんと描き分けているということです。
120話の 壁ありミカサ は「845の後のエレン」が見た世界。つまり、我々読者がずっと見てきた世界のエレンの記憶です。
一方、1話の 壁なしミカサ は「845の前のエレン」が見た世界です。壁がない世界に住んでいるのだから、当然ミカサの背景に壁はありません。
微妙な点を残しつつも、「845の前」で描かれている世界には壁がないと考えることは、全く馬鹿げた発想というわけではないことがわかると思います。
845の前のエレンとミカサはいつのエレンとミカサなのか?
もう1つ疑問なのは、845の前のエレンとミカサは一体いつのエレンとミカサなの?ということです。
全くの別人という可能性は低いでしょう。例えば845の前は2000年後であり、この2人はエレンとミカサの生まれ変わり…なーんてこともあり得るかもしれませんが、2000年後と845年で風景が全く変わらないというのはちょっと無理があります。
であれば、「記憶」「妄想(脳内イメージ)」「並行世界」などが考えられると思います。
問題はいかに本編と上手く馴染むか、というところでしょう。
壁あり世界と壁なし世界
©諫山創 講談社 進撃の巨人 第1話「二千年後の君へ」
- 赤: 壁なし。845年ではない世界。または記憶?
- 青: 壁あり。845年以降の世界。
- 緑: エレンまたは他の継承者が見た記憶
845の前のコマはいつなの?
赤枠内の部分は「道」の世界だと思います。138話の「いってらっしゃい」から繋がっている「道」での出来事です。
最終話でエレンとアルミンが姿を変えながら「炎の水、氷の大地、海、砂の雪原」を旅したのと同じように、エレンとミカサがスイスの山小屋からシガンシナ区郊外を旅しているということです。
エレンは壁がないこの光景を見ているから「ミカサの選択がもたらす結果=巨人の力が消滅する」とわかっていた、ということになると思われます。131話の「自由だ」をエレンが「あの景色を」と言っていたのと同じようなことです。
最終的にエレンが「あの丘の木」の下に埋められることを考えると、「いってらっしゃい」の後に続けて見るのがこの光景なのは自然なことのように思います。
「いってらっしゃい」を見ているのは「道のエレン」
これで、まだ巨人の力を継承してない少年エレンが未来の出来事であるはずの「いってらっしゃい」を見ているのはなぜか?という疑問も解消されることになります。
「いってらっしゃい」の記憶を見ているのは「道のエレン」であり、現実というか下界の10歳エレンではないのです。
「いってらっしゃい」1話と138話の繋がりを考察
Final Season Part2 のエンディング
アニメ1話では「いってらっしゃい」がカットされています。
アニメでは通常、背景がしっかり描かれますので、もしこの場面で背景を白くしたりボカしたりすると「何か変だ」と怪しまれてしまうはずです。だから原作とアニメでは違う表現になっているのだと思われます。あるいは最後までアニメ化されないかもしれないという都合もあったでしょう。
アニメ Final Season Part2 のエンディングはまさにこの原作1話のイメージに近いものです。エレンが1人で滅亡後(?)のパラディ島をうろちょろしています。
木に刻まれた十字架は「道」の証?
©諫山創 講談社 進撃の巨人 1巻1話「二千年後の君へ」
エレンが眠っていた木の幹には十文字(十字架)が掘られています。しかし最終話でミカサがもたれている木には十字架が見られません。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻最終話「あの丘の木に向かって」
10年以上経ったのだから消えたんだろうと思われるかもしれませんが、じゃあなんで1話の木に傷がつけてあるの?という話になります。
最終話でエレンが死んでしまうことを示唆する伏線ということなのでしょうか?
それもあるかもしれません。しかしそれだけではない可能性があります。
最終話以前の回想シーンでも木にもたれて居眠りするエレンは複数回登場しているのですが、どれも十字架の傷が見えないアングルで描かれています。
©諫山創 講談社 進撃の巨人 2巻7話「小さな刃」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 32巻130話「人類の夜明け」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻138話「長い夢」
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻最終話「あの丘の木に向かって」
このように、回想に登場する木には十字架の傷が一切見えません。
そして最終話↓
©諫山創 講談社 進撃の巨人 34巻最終話「あの丘の木に向かって」
最終話の現実場面では、十字架が刻まれているはずの 面 が描かれています。
一目瞭然、十字架はありません。
つまり「1話の木とは別物(道)ですよ」と示しているのではないでしょうか?
7話と130話の背負子の位置の違い
たまたまかもしれませんが、7話と130話ではエレンの背負子の位置が微妙に違います。
最終話でミカサが「エレンはいつもあそこで居眠りしてた」と言っていますので、回想に登場するのがすべて同じ時のものとは限らない、ということなのかもしれません。
そうであれば尚更、1話だけがあの木に十字架の傷がついているとわかるように描かれていることの意味が増すのではないでしょうか。
昔の考察
あの景色?
121話のエレンが語った「あの景色」が1話の「いってらっしゃい」の後の場面のことなのではないかと考えていましたが、違いました。
あの景色は131話のエレンが「この景色」と言った場面だと思われます。
121話のエレンと131話のエレンの表情がほぼ同じなので、間違いないでしょう。
壁なし世界は夢か記憶か現実か
以下のようなことを考えていましたが、違いました。
記憶ツアーによる過去干渉の描写を踏まえると、進撃の巨人の世界では未来と過去が互いに影響を与えている(因果がグルグル回っている)ようです。
「854年に地鳴らしによって壁が崩壊したことで845年の壁もなくなる」というおかしなことが起きる可能性もあると思います。
作中のエレンやアルミンは「壁がない845年」を体験することはありません。最終回近くのエレン達は少なくとも854年以降の世界に生きているので、それはもう過ぎ去った過去です。
しかし「壁がない世界の845年のエレンはそれを当たり前のことと認識してそこにいる」でしょう。あるいは854年のエレンが記憶としてその光景を見ることがあるかもしれません。壁がない世界も確かに存在するよね、ということを実は第1話でやってましたよ、みたいな話です。
映画「ラ・ラ・ランド」のラストシーンに近いイメージかなと思います(当然、全く同じではない)。
空想の世界ではあるのかもしれないけれど、それは現実の世界があるからこそ想像されて生まれたもの。壁があるからこそ壁がない世界を夢見る。不自由だからこそ自由を求める…
やり直しループでもないし、枝分かれ分岐のパラレルワールドでもない。現実とは言い切れないが、あって然るべきと思わせる不思議な世界。
今までの選択の重みを損なわずに少しだけ希望を感じさせる描写という意味ではちょうど良い気がします。
850以降、数字のコマはない…
「数字のコマの後は回想」という法則があるとしたら、850(年)以降の物語はすべて回想ということになるのではないでしょうか。
なぜなら、数字のコマは850より大きい数字が出てきていないからです。
この物語はまさに「長い夢」であり、夢オチと紙一重の構造で突っ走っていたということになります。
1話から最終話までずっと回想、つまり誰かの記憶ということなのであれば、未来の記憶のような不思議現象もある程度許容されることになるでしょう。
そして、ファンタジーだけどリアリティがあるという魅力がより引き立つように感じられます。
またアニメのナレーションはアルミンの声です。進撃の巨人はアルミン(または同じ声になるほど近い存在)が語る物語という妄想も出来ます。